47号 2016年(平成28年)1月20日

お伊勢参り道中記 その三(見原家古文書)

三月五日 見学地(※は注釈)

  淀御城    ※京都伏見区にあった近世の平城。宇治川と桂川の合流点  

    水車あり  にある水城。天正七年(1579)、豊臣秀吉が修築、側  

          室の淀殿が入った。伏見城の築城で廃城となる。

         ※淀城は淀川の中州にあり、北と西の二カ所に揚水用の水

          車((よど)水車(みずぐるま))を備えていた。

  七ツ時伏見着船、※七ツ時は現在の午前四時、若しくは午後四時

  (それ)より京都六条

  吉田院に泊り

三月六日

  六角堂    ※通称六角堂と呼ばれる頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区にある。四天王寺の建立に際し、聖徳太子がこの地に六角堂を建て、如意輪観音を安置した。嵯峨天皇の勅願所。

  清閑寺    ※京都東山にある真言宗の寺。長徳二年(996)、勅願寺に指定されたが、大治四年(1129)焼失。再建後、六条天皇、高倉天皇を寺内に葬る。

  

三月七日

  三拾三間堂  ※京都東山区にある天台宗のお寺、蓮華(れんげ)王院(おういん)の本堂。後白川法王が平清盛に命じて堂舎、等身大の千体観音像を造営させた。本堂三拾三間堂で知られる本堂は国宝。

  小町寺    ※京都市左京区にある補陀洛寺。小野小町終焉の地と伝えられ、境内には小町供養塔、姿見の井戸がある。

  西宗寺    ※山科の道なり。この裏手に月見の石あり。蓮如上人御秘蔵南殿月見の石とあり。

  二条城    ※京都市中京区にある近世の平城。世界遺産。

三月十二日晴

  四ツ頃より打立 ※四ツ時は現在の十時

  西山見物

  朱坂・桂川・嵐山 ※桂川のうち嵯峨(さが)から松尾にかけての流域を大堰(おおい)川と

  渡月橋など     いう。嵐山(あらしやま)・小倉山・()(げつ)橋などのある著名な景勝

   景趣難画筆    地。「けいしゅふでにえがきがたし」

  紫野大徳寺    ※京都市北区にある臨済宗の寺。

  神護寺      ※京都市右京区にある真言宗の古刹。高雄山寺とも言  

清滝川此辺有   われ最澄(さいちょう)空海(くうかい)がここで法会を開いた。勅願寺。

  北野       ※天満宮がある。

  平野       ※平野神社

  二条       ※二条河原の落書きで有名

三月十三日

  金毘羅社参詣   ※讃岐(さぬき)の国の()刀比(とひ)()宮、つまり金毘羅は香川県琴平なので、そこへ参詣する人々を運ぶ船の港ではないかと思われる。

  それより藪下   ※買い物に行く

三月十七日晴     

  西御本山御座敷拝見

虎の間 波の間 御対面処 鶴の間 雁の間 白書院 御能舞台 古惣絵見事

  遊行寺(ゆぎょうじ)(俗称)  ※清浄光寺(しょうじょうこうじ)。時宗の総本山

  東福寺      ※京都市東山区にある臨濟宗東福寺派の総本山。寺名       

            は東大寺と興福寺からとり、本尊の釈迦如来像は高      

            さ十五メートル。

   通天橋 紅葉の名所 秋は此処茶屋多く出来す 誠によき場所なり

藤の森       松高場と名つけし石あり(原文のまま)

                            西 輝喜

46号 2015年(平成27年)8月20日
お伊勢参り道中記 その二(見原家古文書)
二月二十九日 見学地 (※は注釈)
明石(あかし)城   ※ 兵庫県明石市 近世の平山城
舞子の浜  本文 船より景趣程よし
一の谷   本文 山の峠に弁慶鐘懸の松見ゆ
須磨の浦  本文 景趣難尽筆
※ 神戸市須磨区 淡路島を望む景勝地 景色は筆に書き表すことも出来ないほどきれいだ。
兵庫    本文 かかり船、大小数隻
生田(いくた)の森  本文 山の上にあり
※ 一の谷から生田の森までは源平合戦の歴史を色濃く残す。
神戸 泊   ※ 平安末期、平清盛が築造した港で日明交易の拠点だったが、後で堺が日明の貿易港になる。
※年貢米以外の納屋(なや)米、麦、大小豆などを積んだ川尻からの商い船に便乗して、神戸で下船。船は商いをしながら大坂方面までも行くらしい。神戸からは伊勢往復は、馬か駕籠(かご)だった。なお、ここまでの名所は帰りの船を待つ間の散策で説明します。
※神戸の地名は神功皇后ゆかりの生田神社に由来すると言われます。また、平清盛が福原京を営み、源平争乱や湊川の戦いなどで戦場になったところです。
三月一日  見学地
灘の大酒屋  ※ 兵庫県南東部、六甲山麓斜面一帯の灘は六甲山からの急流を利用した水車で精米、酒造や絞油で栄えた。
西の宮    ※ 兵庫県南東部大阪湾沿岸に位置し、神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)ゆかりの広田神社の門前町。
尼崎     ※ 兵庫県東南端、尼崎藩の城下町。
三月二日  見学地
八ツ半頃(二時)
安治(あじ)川入ル ※ 安治川は琵琶湖から大阪湾に注ぐ旧淀川の分流の一つ
で、中之島西端より大阪港まで。
天保山入口  ※ 天保二(一八三一)年、安治川の浚渫(しゅんせつ)(川底のさら
景よし    え)で出た土砂を安治川の河口左岸に積み上げた。
この小丘に高灯篭を設置、河口の目標とした目標山。幕末には砲台が
築かれた。
大坂着船
土佐堀二丁目 油屋(あぶらや)善兵衛方泊リ
同日夕、
野慶町より新町まで(夜景)見物
三月三日  見学地
西・東本願寺  ※ 見原家は先祖の供養を大切にした。京都市下京区
御坊南寺      堀川の西本願寺、同じ下京区烏丸通りの東本願寺
同日夕、夜店行   を参拝拝したのでしょう。
三月四日  見学地
道頓堀大芝居
朝五ツ(七時)頃より行き夜帰る。
※ 道頓堀角(かど)。座磨(ざま) 此のあたり、見世物いろいろあ
り 大あたり一切二十四文
三月五日  見学地
大坂八軒家浜(はま)渡(わた)しにて朝五ツ半(八時)頃乗る。一人前百四十四文。二
人前貸切る。
※ 座る場所が窮屈だったので、二人前を支払ってゆ
っくり座ったのでしょう。

西 輝喜

 

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

45号 2015年(平成27年)7月20日

お伊勢参り その一

 「七くさに はやささやくや ぬけ参り」

              宝井(たからい)()(かく)(江戸前期・蕉門の高弟)

 親や主人、また村役人の許可なしに           伊勢参りに行くことを「抜け参り」と言います。勿論、江戸初期には禁止されていました。「せめて一生に一度はお伊勢参りをしたい」は、庶民の夢でした。お伊勢とは、(あま)(てらす)大御神をまつる内宮、豊受(とようけ)大御神をまつる外宮(げぐう)別宮(べつぐう)など125社の総称です。

 大勢が安心して旅ができるようになったのは、街道や宿場が整備された江戸時代の元禄期(一六八八~一七0四)以降です。しかし、明和二年((一七六五)に「農民の伊勢詣は、村高五00石毎に一人を認める。ただし、年貢未納者は認めない」というお達で制限されていました。

 民衆の寺社参詣は江戸時代、伊勢神宮に限らず「四国八十八カ所」など、全国の有名寺社廻りも盛んでした。寺社参詣は信仰によることは勿論ですが、圧政下に苦しんだ民衆の不満解消にもなっていたと思われます。なかでも伊勢信仰が盛んだったのは、神社側が「御師(おし)」と呼ばれる伝導者を諸国に派遣して信仰熱をあおり、道中の手配や宿泊を請け負う現在の旅行業者の役割をしていたからでしょう。

(おとこ)(なり)守寿(山都町矢部)著「郷党(ごうとう)暦代(じゅう)穂記(ほき)」に、寛延四年(一七五一)、()塩焼(たき)という御師が矢部の浜町に来て、手永会所に三泊した。その折「会所玄関に神棚を設けたところ、老若男女が群衆してお賽銭が一日に八00目も集まった」とあります。神信仰の表れです。

 このように、民衆の間に伊勢信仰が根付くと役人も神罰を怖れ「抜け参り」を黙認するようになります。しかし、伊勢への旅費は一家の生活費の一年分にも相当します。そこで村落では、地域毎に「講」でお金を積み立てて順番に伊勢に参拝する仕組みを設けました。その年の参拝者を村境まで見送り、帰着時には村境に出迎える「坂迎え」の風習も生まれました。

 川尻町でのお伊勢参りは個人の希望でできました。

 外城町の二軒に道中記が残っています。一軒は「入来屋(いりきや)」の屋号を持つ見原(みはら)家で、もう一軒は坂尾家です。二軒は親戚ですが、ここでは墨字で詳しく記述してある入来屋の道中記を紹介します。なお、藩政時代の見原家は川平田船を持ち、甲佐や御船、砥用までも包丁・農具などの鍛冶製品や日用品から塩魚等を運び、帰りには納屋(なや)(まい)や大豆、茶、などの農産物を積んで来るなど手広く商いをしていたようです。また見原家は、川尻町を支配していた町奉行所にも品物を納入していた関係で殿様と呼ばれる町奉行から入来屋の屋号を授かったとの言い伝えがあります。

さて、道中記の表紙には「天保年間 お伊勢参り道中記」と書かれています。年月日は不明ですが、天保(てんぽう)年間(一八三0~一八四四)の前半は、天災が続き全国で一揆や打ち壊しが起き、また大塩平八郎の乱に代表される騒乱が相次いだ時です。このため旅は危険でしたので、天保年間後期の伊勢参りだったろうと思われます。                                            

西 輝喜

 

44号 2015年(平成27年)3月20日

(いかだ)流し その二

先頭の挺には「親方」と呼ばれる統率者が乗り、最後尾の挺には手練(てれん)の者が乗っていた。また、挺の先の棚は「舵取り」といい、熟練者が務め、後方の棚の者は筏が岩などにぶち当たらないように(みざお)を使うのが役目であった。

急流でカーブの箇所が多く、また浅瀬あり、突出た岩あり、大石ありの難所では、その都度先頭の筏から大声の注意が飛んでくる。その注意を後方の筏に伝えながら必死で棹を操っていく。浅瀬に乗り上げれば筏は動かなくなり、岩に衝突すれば、その衝撃で人は川に投げ出され、筏師にとって生命の危険を伴う仕事なのです。

川ヘタから岩下まで六キロメートルの難所を通過すると、流れも緩やかになり、川幅も広く水深も深くなる。岩下でしばしの休息後出発となる。ここまでは舵取りの苦労だったが、これから先は、棹で漕ぐのにまた一苦労をする。二人で力を合わせて漕ぐが、川底の石に当たると、ミザオの先が割れたり、折れたりする。(棹が折れると、そのはずみで体は水中に弾き飛ばされる)その都度、予備の棹に取り替えて漕いで行く。

川尻の町近くなると「うっ出し」と呼ばれる激しい水流の地点や「十五ソさん」と呼ばれる最大の難所が待ち構えている。

大渡橋下は橋杙(はしぐい)の幅が狭く流れが速い。ここを通称「十五ソさん」と呼ぶのは昔、冬のある日、年貢を積んだ十五隻の舟が突風に(あお)られ橋杙にぶつかり、あわやと思われる危機となったが、奇跡的に全舟乗り切ることが出来た。船頭たちはこのため、この地に祠を建て、風ん神さんを勧請して「十五ソさん」と名付け、ここでは神様に安全を祈願しながら通過するのが習慣となり、無事通り過ぎたら十五ソさんに手を合わせ、お礼を唱えていたそうです。

川尻町には正中島を主にして、川筋に八軒の製材所があった。山師と契約した製材所の貯木場に筏の着くのが八時頃で、甲佐から五時間ほどの輸送時間でした。

山師や製材所では、着いた材木の直径を計り、石数(体積)を計算して引き取ります。

甲佐の筏師たちは朝食後、川尻電車、熊延鉄道を乗り継いで帰ったが、緑川沿いに歩いて帰る者もいた。帰家は午後二時頃になっていた。砥用、矢部方面の筏師たちは川尻に泊まって翌朝帰っていたそうで、宿は正中島に筏師専用の宿泊所(簡易旅館)と旅籠「つるしま」、新町に「ひろせ」がありました。

昭和二十六(一九五一)年、九州電力甲佐発電所の塚瀬ダム(砥用町古閑)が竣工すると砥用から淀淵までの材木は営林署のトロッコを利用した輸送となり、淀淵からはトラック等で各地に運ぶようになり、川尻から筏の姿は消えてしまいました。

緑川に合流する黒谷川は、緑川左岸の矢部町と砥用町の境界をなし、その吐合に「カタ淵」と呼ぶ淵がある。近くの集落、下福良(砥用町)の聞書によれば

私の父は筏師だった。中村から雇った筏乗りが五、六人、多い時には十人位泊り込むことがあった。カタ淵で筏を組んで甲佐の淀淵まで流し日帰りしていた、川尻まで運ぶ時は、川尻のヒロセ旅館を定宿としていた。また、年に一回は川ざらえをしていたが、甲佐までトロッコ運搬が出来るようになると筏乗りの殆どがトロッコに乗るようになったという。

西 輝喜


 

 

43号 2014年(平成26年)6月20日

(いかだ)流し その一

川尻町発展の基は筏だった、と言っても過言ではありません。その筏関連の文献を町史や資料から拾ってみますと

 川尻町史 御作事所

 「官職制度考」には船の作事、米倉、所々官署の造作を掌る。と定められています。これらは川尻御大工棟梁の竹内家当主が、代々大工を指図して御用を勤めていました。御用材は砥用、甲佐御山から伐り出され、筏で緑川を下り運んでいたのです。

肥後国誌 

桑津留村の小村として「舟場村」が記載されている。文化十(一八一三)年の「緑川上流通漕碑」によりますと「文化四年から同九年にかけて河浚をした結果、桑津留から豊内(甲佐町)までの通漕が可能になった」と記しています。

砥用町史

「明治四十(一九〇七)年頃には、柏川奥の国有林の直径六十センチメートル位の大きな木材で柏川をせき止め、水が深くなったところで放水して木材を流し、明無瀬の緑川本流で筏を組んで流していたが、だんだん水が涸れて、大正の初めには宮内(甲佐町)の淀淵までバラで流し、淀淵で筏を組んでいた」とあります。

以上の資料から年々緑川の水量が減っていったのが分かります。

甲佐町宮内の西原地区は、矢部・砥用・甲佐の材木集積地でした。ここには四十人ほどの筏師がいて川尻まで材木を運ぶのを生業(なりわい)としていました。

川尻町には五、六軒の山師を職業とする家がありました。山師とは山林の買い付けを仕事とする人達です。その人達は矢部町の内大臣山や砥用、甲佐などの山々を歩き回り、気に入った山林を買い付けました。

買った杉、桧の立木は(きこり)が伐採して六メートルの長さに切り揃えます。立木は直径四、五十センチメートルの五十年ものがほとんどで、その材木は一年間ほどその山に置き、水分を抜きます。翌年、樵は山師から指示された日までに牛に材木を曳かせ舟場へ運びました(馬では材木に傷がつき易い)。

筏師の段取り

一日目「藤カズラタチ」と言って、グループ全員が(なた)(かま)を携え、幾キロも歩いて山奥に分け入り、藤カズラ取りです。採取したカズラは夕方、山ボコに差して担って帰ります。

二日目 集めてある材木を八本横並びに藤カズラを廻して結び付ける。これを棚といい、その幅は三メートルにもなり、この棚を一メートルほどの間隔で、四組をカズラで繋ぐ。つまり、四輌編成の電車のように縦に繋ぐのです。

間をあけるのは、川の流れが蛇行したり、曲がったりしているので筏全体を曲がり易くするためで、これを一挺といい、二人一組で一挺の筏を作るのです。

三日目 握り飯を風呂敷に包んで腰に結わえ、地下タビ、キャハン姿の筏師達は朝三時に川辺に集まり一挺の筏に二人ずつ乗ります。普通七挺編成で、総勢十四人です。用意してある長さ四メートルほどのマタケの(ミザオ)を各挺に五、六本積み込むと出発です。

西 輝喜

 

42号 2014年(平成26年)4月20日

草津餅の由来

川尻町史に「島津家止宿の折は必ず名産草津餅を白木の箱に入れて献上した」とある。

 世が戦国時代から江戸時代に変わると泰平の世になり、交通網も次第に整い、街道筋には人が集まる宿場町・港町等が形成された。昔の旅は、今の旅行のように快適なものではなかった。江戸初期までは、宿というのは寝泊りをするだけ。食事は自炊、部屋は殆ど相部屋で夜具は汚れて、押入れもなく、宿屋は薪を提供をするだけ。従って宿泊料は木賃として取っていたので木賃宿と呼ばれていた。後では食事を宿が出すようになったが、おいしいものを食べさせるという接待ではなく、その土地に産するものばかりだった。しかし、旅する楽しみは食べ物。世の中が進むと加工したもの、菓子や団子といった名産が各地に出来あがってきた。

川尻名産の草津餅は「草津よいとこ一度はおいでドッコイショ」の群馬県北西部の草津温泉ではなく滋賀県南部、琵琶湖東岸の草津がこの餅の誕生地です。

ここは古代から交通の要所で、近世には東海道と中山道の分岐点として宿場町で栄え賑わった所です。水津に対する陸津が草津になったとあり、地名は陸上交通で種々(くさぐさ)の物資が集散する津(港)の意味と思われます。

近江は京に近く、昔から商業活動が盛んな土地柄、近江商人として全国的に活動していました。薬草の栽培も古来より盛んで、お灸のもぐさは殆ど近江の産、製薬・売薬も富山と並んで有名な所です。泰平の世、旅人は増え「旅の必需品は薬」、需要は増すばかりです。

さて草津屋の先祖がこの地に薬種屋、餅屋を開いたのも、港町・宿場町として繁盛していた川尻が最も適当だと判断したからでしょう。いつの頃から草津餅が売られたのかは不明ですが、岡町の偏照寺に草津屋のお墓が幾つかあり、古い墓石に享保十三年(一七二八)草津屋八良兵衛と記されたのもある。享保年間は江戸中期、将軍吉宗の時代、その前から草津餅が売られていた事は確かです。

当時、川尻の本場は本町・店町・下町・外城町。中心地より街道筋が旅人も気軽に立ち寄れ、茶をすすりながら餅を賞味したものと思われます。

草津餅は珍しい位小さいのが名物で、一口で食べられるのが特徴。側の餅を薄くして、中にアンコを入れるのは特技を要した。小さくて側が薄ければ、どっかりすることもなく、一つ一つと摘まんでいるうちに、思わず沢山食べてしまうのが草津餅で、人々の出入りが多い港町の名物として大繁盛だったそうです。また、細川藩家中の武士は、馬の遠乗りで川尻に来ると、必ず草津屋へ立寄っていたと伝えられています。

明治に入ると旅人は船から汽車へと変わった。草津屋本家は家運を他に求めて餅屋をたたみ長崎へ転出することになった。しかし、餅を求める人々が多かったので、近くの村上家が餅屋を代々受継ぎ、分家が草津屋薬局を経営して菩提を守っている。

西 輝喜

 

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。