29号 2012年(平成23年)4月20日

伝統産業の町川尻の諸識

川尻桶   その一

加藤清正は慶長六年(一六〇一)~十五年(一六一○)の間に緑川の改修を行い、阿蘇外輪山の木材を内大臣・砥用・甲佐方面から筏で流し、川尻で集荷した。この機に川尻で木材工業が盛んになったと伝えられている。

藩政時代、田町通りには二十五軒もの桶屋が建ち並び、職人と徒弟たち二百五十人ほどが居住する「桶屋町」と呼ばれていた。

明治以降、伊津野家の本家、分家、新家の三家は樽丸屋と呼ばれ、瑞鷹の専属となり、酒仕込み用の五尺桶(高さ一、五三メートル)や四斗樽(七十二リットル)などの容器を作った。また、松本家は樽の修繕を専門とし、瑞鷹の酒蔵を巡回して樽の修理に当たった。昭和九年(一九三四)十月の職業調査によると、新田町の十八軒に他地区の桶屋を合わせた二十五軒が川尻町の重要産業として刃物製造と共に栄えていた。

桶の材料の杉は矢部方面、たがの材料の真竹は木山や隈庄から買い入れていた。ちなみに、桶は被せ蓋で、樽は蓋(鏡板)を落とし、嵌め込んだもである。なお、樽は積み重ねるため、上部を大きく作ったものが一般的だった。

*職人の生活

一軒の桶屋では一般的に、職人は五、六人、徒弟が六、七人ほどが働いていた.職人は家を持ち、通いで働いていたが、徒弟は住み込みであった。

新入りは、最初のうち「研ぎ水汲み」や使い走り等の雑用をさせられる。仕事は、「竹ヘゲ剥ぎ」とか「刃物研ぎ」などから仕込まれていく。「たが」にする竹ヘゲ(ひご)の取り方は三角(梯形)で桶屋独特の方法である。竹細工では平たくヘゲを取って作るが、桶作りは三角にしないと、たがの締め付けが効かないからである。

砥石には数種類あり、研ぐ刃物の種類も多い。全員の刃物を研ぐのが新入りの仕事であった。兄弟子に殴られながら研ぎ方を覚えていく。その他、鉋(かんな)がけ、鋸引きなどきつい修練を積まなければならなかった。

一日の仕事は明け方の掃除から日没の後片付けまで続いた.仕事を終えた夜や一日、十五日の休日には兄弟子たちと銭湯に行ったり、映画を観に行ったり、街で遊び回った。

弟子入りしての二、三年間は小遣いにも窮しており、そのことを知っている兄弟子たちから古着を貰ったり、お菓子を奢って貰うのが順送りでした。

道具の使い道をある程度習得すると、職人の手伝いを離れ自分で桶を製作するようになる。三年ほどで「すし桶」が作れた。この頃から給金も増え、小遣いや衣服の不自由もなくなる。十年間の年季で腕を上げ一人前の職人と認められるのが一般的だった。

一人前になると親方から道具一式が贈られる。しかし、広い仕事場や高価な道具類の購入には費用がかさむため、その後も職人として残って独立資金を蓄える人が多かった。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

28号 2012年(平成24年)2月20日

伝統産業の町川尻の諸識

鍛 冶   その二

柄作りは弟子だけの仕事ではない。子供や女が材料の皮を剥ぎ、後は全員暇をみては手分けして作った。鍬の柄は樫。鎌、包丁は松、椎などで富合、城南、宇土半島の山から取り寄せていた。

昔は「ろくろがな」がなかったので、短い柄の鎌や斧などで削り揃え、後は鉋で仕上げる。その切り屑や削り屑は、火床の火起しに使っていた。鍬の柄などは曲がって堅く工作に難渋していた。後ではその専門の店、鍬形屋が横町に開業したので、皆はその店へ注文をしていた。道具の鞴(ふいご)は大阪へ注文していたが、ピストンは狸の皮を指定していた。他の動物の皮では空気漏れが速いからでした。大正七(一九一八)年頃からモーターで風を送るようになった。鞴に代わって送風機が登場、砥石も動力で回すようになり刃物研ぎも簡単になった。終戦後の昭和二十一年頃ベルトハンマーが導入されると、特別品でない限り向こう槌(大槌)もいらなくなった。

鍛冶用具は鋏、小槌、大槌、金床、万力、ヤスリ、鞴、たがね、水桶、水床、砥石(荒砥、中砥、仕上げ砥)などである。

*釘景気

昔の釘材料は和鉄(砂鉄)で島根地方から購入していた。長さ約一尺五寸(四五、五センチ)、横幅三、四寸(一〇~一二センチ)、厚み二、三分(六~九ミリ)ほどの短冊形の鉄板です。この鉄板を切り割って釘を作るから、大変な手間がかかっていた。江戸末期から南蛮鉄が入手できるようになる。この鉄は線状になっており、一本一本切れば簡単に釘が作れた。このため釘専門の鍛冶屋は蔵を建てたとの話が残っている。明治以降は八幡製鉄所の鉄を購入するようになったが、これを洋釘と呼んでいた。

川尻刃物の特徴は硬い鋼を柔らかい軟鋼で挟み込む「割込鍛造」です。硬軟二種の鉄の塊が火床(ほど)の中で真っ赤に焼けると、鋏で金床に移し、大槌、小槌で交互に叩き不純物を除きながら、硬い鋼を軟鋼で鋏み形を作っていく。少し色が褪めたら、水床に浸して再び火床で焼く。形作りの作業を幾回となく繰り返し、最後は硬鋼の部分の刃先にヤスリをかけ、木製の柄を取り付けて完成する。一人一日の製作量は、鍬三本、鎌一二~三本、包丁六本程度だったという。

*鍛冶屋の風習

①本立寺境内の三十番神堂は 横町の人々が火災予防に島 原の護国寺から勧請した神 様で、毎日を交代で護る三 十二神が祀つられている。

②女性は横座(仕事場で親方 が座る場所)に近づいては ならない。(禁忌)

③大晦日は午前中で仕事を終 え、掃除、道具類を清め、  荒神様を祀る。そして、 火 を灯して一年間の無事を感 謝し、来る年の安全を祈願 する。家の門口や煙突には、 注連縄を張り歳神を迎える。

④一月二日は初仕事。朝二時 頃起きて荒神様を拝み、一 年間神棚に供える「かざり 剣」を作る。その後得意先 から頼まれた用具の製作に 取り掛かる。「初仕事で作っ た物は縁起がよい」と言っ て早朝から購入に訪れた客 を酒肴で接待する。仕事は 午前中で終え、弟子たちは 午後から里帰りして五日ま で休みとなる。

⑤十一月八日は仕事を休み「火 の神様祭り」をする。鞴祭 と呼ぶこの日は、夕方集ま る群集に親方、弟子たちが 屋根から魔払いの密柑投げ を行い、その後得意先を招 いての酒宴を催す習慣で あった。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

27号 2011年(平成23年)12月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

鍛 冶    その一

鍛冶は室町時代の応仁年間(一四六〇~一四六九)に薩摩の刀工、波平行安が、焼き入れに使う良質の水を求めて各地を訪ね歩き、川尻の水を得て当地で刀鍛冶を始めたのが起源と伝えられています。

伝承によれば川尻の横町天満宮北側に刀工の祠(神を祀った社)があり、その付近から波平氏の名を刻んだ石灯籠と無数の金屑、使い古した「ふいご」などが発見されたといいます。なお、石灯籠は、鍛冶の上達を祈願したものです。

この由緒ある横町には鍛冶屋が軒を並べ、通称「鍛冶屋町」と呼ばれ、刀だけでなく各種の用具を作り、商港川尻の盛んな水運とともに発展します。

(専門分野)

鍛冶はそれぞれの専門業者に分かれていました。昭和初期一七軒のうち刀鍛冶・鍔鍛冶・野鍛冶(農具を中心)・包丁鍛冶・船釘・大工釘・馬車・蹄鉄などの分野がありました。

(弟子入り)

高等小学校を卒業(一四歳)すると伝を頼って弟子入りを希望する「徒弟制」でした。弟子入りが決まると親は酒一升と手土産を持ち、子供を連れて親方の家を訪ねて、親方と約束固めをしました。これは本人に厳しい修行の自覚を促す儀式でした。

その日から始まる親方と弟子の主従関係は年季明け後も長期に亘るのが通例でした。昔の年季は技術の習得が目安でしたが、昭和期になると年季はほぼ五、六年で「徴兵により年季明け」とするのが一般的となります。年季の間は無給で、時々小遣い銭が貰える程度でした。

(弟子の仕事)

鍛冶屋の仕事は普通朝の八時頃から夕方六時頃までしたが、新入りは皆より一時間程早くから仕事場の掃除、水床の水替え、炭割り、ほど(火床)の火起こしなどをして親方や兄弟子を待っていなければなりませんでした。

仕事が始まれば、包丁や鎌などの柄作り、刃物研ぎ、水汲みと休む暇は無く、その合間に親方や先輩たちの仕事を覚えていく「鍛冶は見て技術を覚える」の生活でした。

真っ赤に熱した玉鋼を小槌(親方)大槌(兄弟子)で交互に打ち鍛えるさまに目を走らせる。仕事場は薄暗い。暗くしているのは、焼き入れの火の色を見るため。温度は鉄の焼けた色で見る。鍛冶は経験と勘が頼りで、焼き入れには全神経を使うという。

昔の「火床」には松炭が使われ、宇土半島や天草から船で船着場に運ばれて来ていました。炭には大小あるので、大きい物を割って粒揃えをする「炭割り」という仕事もありました。

しかし、燃料は明治二十七(一八九四)年、鉄道が敷かれると、より熱量の高い石炭を使うようになります。河尻神宮前にあった葦原商店が三池の石炭を貨車で注文し、駅から馬車に積替え配達していたといいます。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

26号 2011年(平成23年)10月20日

 

川尻公会堂創立八十周年によせて

その三    吉村彦太郎

アサは実家と吉村家の空気の違いに戸惑った。実家は三角築港が完成した明治二十年頃から廻船の仕事が減り始め、二十七年の鉄道開通後、仕事は激減して家は沈んだ雰囲気だった。しかし、吉村家は活気に満ちていた。日頃、蔵の方から威勢の良い掛け声やもろみの甘酸っぱい香りが漂ってくる。女人禁制の蔵の方には行けないが、一年で最も寒い時期には「寒仕込み」が行われ、蔵人は夜でも働いています。

夕刻、遮廻(あしまわり)の吉蔵が彦太郎に「お風邪の具合は如何ですか。今夜は寒九の水汲みですから早めに帰らせてもらいます」と告げた。

「酒は米・麹・水が命」という。吉村家では洗米とか雑用水は井戸水だが、仕込み用水は緑川の水を使う。その水汲みは九州山地から流れ来る水が最も清浄な朝三時頃で、柄杓で二つの大桶に汲み入れる骨の折れる仕事です。櫓や竿を使って緑川を舟で遡上し、加勢川との合流点より上流の水を汲まねばならないのでした。

柱時計の振り子が五時を告げた。アサは夫の寝息を確かめると、そっと起き上がり正中島橋へと急いだ。夫に代わって、吉蔵たちの乗った数艘の舟を出迎えるためだ。荷揚げ場にはまだ誰もいない。大渡橋下は急流でしかも橋杭も多く、一番の難所と聞いている。そこに祀ってある舟神様に無事の通過を祈っていると、桶を運ぶ荷車を曳いた蔵子たちが集まって来た。杜氏の古賀寿八の顔も見える。

帰ってきた吉蔵はアサに「旦那様へ」と瓶を差し出す。寒九に汲む水は服薬に用いても特効があると伝えられていたのです。この「アサの出迎え」は蔵子たちに知れ渡り、アサは蔵子たちの信頼を一気に得ました。

彦太郎の仕事は弟和七と妻アサの支えによって順調に伸び続け、銘酒瑞鷹酒造の基礎を築き上げます。そして、熊本県酒造組合評議員、酒造研究所相談員として酒造界の向上にも取り組みます。

そんな中、彦太郎は瑞鷹の今日があるのは地域の支援あってのことと、大正七年川尻小学校運動場拡張のための土地一反九歩を寄贈、その上小学校の建築

費・備費等々に多額の寄付をしました。

ところで、川尻町商工会は明治四十三年、町役場内に事務所を設け、伝統産業の振興、販路開拓のための共進会、講習会等を企画、会場は浦島劇場や小学校の教室を借りて行っていました。このことをとても気に掛けていた彦太郎は、昭和五年病の床に臥し「町のための公会堂建設」を遺言して長逝した。(享年六十二歳)

感動した町の人々はこの彦太郎の遺徳を永久に伝えるため、公会堂の敷地内に懐徳碑を建立しました。その碑文に『富は屋(おく)を潤し、徳は身を潤す』とあります。まさに至言です。

共進会は公会堂の使用を契機に更に販売が続伸し、工芸のまち川尻の声価を高めたことはいうまでもありません。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

25号 2011年(平成23年)8月20日

 

川尻公会堂創立八十周年によせて

その二    吉村太八、彦太郎

   明治十(一八七七)年二月、西南の役が起こり、四月川尻にも戦火が迫りました。川尻にあった三軒の酒屋は逸早く避難しましたが、吉村太八家では女、子供だけを避難させて主と店員・蔵子の殆どが店に残って営業を続けました。

 四月十二日未明、杉合村廻江の緑川岸から官軍の砲撃五十発を受けましたが、幸い町には火災が起きませんでした。しかし、一発が太八家の酒蔵に命中、屋根を貫通して土間に大穴が空きました。恐怖に戦き、その日は全員避難しましたが、翌日には再び店に帰り営業を続けます。

 西南の役後、熊本市内の酒屋は殆ど兵火に焼き払われており、川尻でただ一軒営業を続けた太八の店は面白いほど繁盛しました。しかし、その頃の熊本県の清酒醸造技術は劣等で、旨い酒は筑後、灘、伏見から移入されていました。

 太八は何とかして良い酒の醸造をしたいと念じていた折、明治二十(一八八七)年、つてを得て兵庫県出身の丹波杜氏を招き、灘式の清酒醸造を試みました。県下では初めてのことで、まさに太八の大英断でした。

 同時に十九歳になった彦太郎には店務一般、十七歳の藤吉には販売、十五歳の和七には醸造を分担させて仕事の習熟と効率化を図りました。当時の酒造家では、醸造に関しては杜氏まかせで、醸造に関する知識を殆ど持ちませんでした。太八は将来の酒造家は、それではやって行けないことを予見していたのでした。

 明治二十三(一八九十)年、杜氏の失敗で酒の大部分が腐敗、酢に変成しなければならない始末となりました。これを機に丹波杜氏との契約を切り、翌年から従来の杜氏、古賀寿八と和七の二人に醸造を担当させました。

 江戸時代細川藩は赤酒を「御国酒」とし、それ以外の酒の製造を禁止、他藩でつくられる清酒は『旅酒』と呼ばれ細川藩への流入は規制されていました。このため、明治に入り清酒の製造が許可されても熊本県内では品質の良い清酒はつくれませんでした。この頃、熊本税務監督局に「酒の神様」と言われる野白金一氏が着任します。これを機に太八、彦太郎親子は県下の蔵元に呼びかけ、上方に劣らない醸造技術の習得を目指した研究所の設立を呼びかけました。

 明治四十二(一九○九)年、蔵元たちの強い要請で研究所の技術顧問に就任した野白は、県内の清酒の品質向上に心血を注ぎ、昭和初期には、全国の品評会で一位から三位までを熊本県産酒が独占するほどの銘酒醸造をなしし遂げました。

 ところで、彦太郎は明治三十八(一八九五)年に川尻町下町の廻船問屋塩飽屋からアサを妻として迎えます。

                                                          西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

24号 2011年(平成23年)7月20日

 

川尻公会堂創立八十周年によせて

その一   吉村太八(瑞鷹創業者)

太八は天保九(一八三八)年、川尻中町浅木屋要八の次男として生まれ、嘉永六(一八五三)年、十六歳のとき三郎兵衛の養子として大嶋屋分家へ入家します。

大嶋屋三郎兵衛は異風人でした。家は売薬を業としていましたが商売を好まず、俳句を作り、書物を読むことを楽しみにしていました。俳人仲間ではその中心として信頼を受けていたが生計は苦しく、本家大嶋屋からの援助で暮らしている状態でした。従って、養家での太八の仕事はありませんでした。このため、太八は町で産する桶類を担いで熊本方面へ行商するのが日課でした。また、家が売薬を取り扱っている関係から、年に一度、富山から入れ薬商がやって来ると,太八はその供をして薬籠を担い、山村を廻る賃仕事もしていました。

安政四(一八五七)年、三郎兵衛は隠居して家督を太八に譲りました。太八は養家の家業を引き継ぎましたが、その時の商品棚卸総額は僅か六百四十文だったといいます。当時うどん一杯が十六文でした。太八は「懸命に働きさえすれば、必ず神が降りてくる」という実家の教えを胸に、大嶋屋本家からの援助を辞退して、商売に勤しみました。

当初は、養父から引き継いだ売薬に加え箒、草履等の小雑貨を商い、次いで米や雑穀の搗き売りも始めます。これが割と利があり、更に自宅で麹の製造を手掛けました。

その当時、多くの家で自家用の酒を造っており、また酒屋も多量の麹を必要としていたので、秋から冬場にかけて麹はよく売れた。川尻が肥後五ケ町の一つで、商業上の制約をほとんど受けない地域だったことが幸いしたのです。

太八が文久元(一八六一)年に結婚した頃、客が店に置いていない薬を求めると、夜分店を閉めてから熊本まで往復三里の道をその薬の仕入れに出かける程の商売熱心さで、次第に人々の信用を高めていきました。

太八は養父三郎兵衛が近眼に加え老齢のため書物を読めなくなると、終日の労働で疲れ切っていても、毎晩軍記物語を呼んで聞かせるなどの孝養を尽くしました。そのことが町奉行の耳に入り、太八は親孝行と家業精励により鳥目一貫文の褒賞を頂いたのです。鳥目とは、丸い穴あき銭で、一貫文が一000枚で一分、四分が一両です。

慶応三(一八六七)年十月、太八は住宅裏の小屋で少量の濁酒を造りはじめます。酒造業の始まりです。

明治二(一八六九)年、太八は酒造蔵一棟を建設します。太八が初めて作った建築物でした。そして、その年の二月三日、長男彦太郎が誕生。その後二年おきに次男藤吉、三男和七が産声を上げました。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。