32号 2012年(平成24年)9月20日

伝統産業の町川尻の諸識

染 物   その二

藍甕(あいがめ)

藍甕は、高さ一メートル三十センチ、胴回り二メートル七十センチ、口径八十センチ程の陶器です。この藍甕の口部を十センチ程地上に出して、本体を庭の地中に三つ並びに埋め込みます。

そして「藍を出す」と言って、藍甕と藍甕の中間、しかも地中に埋め込んだ火(ひ)室(むろ)で鋸屑を燃やします。藍甕は一年を通じて温度が一定していなければなりません。この温度を保つことを「守りする」という程ゆるがせにはできない大切なことです。その温度は門外不出とされ、その店主の「秘伝」でした。

藍甕は従業員一人に三本、予備の一本を加えて四本を受け持つのが一般的でした。従って大店で五十本、小さい店で二十本は備えていたようです。

藍染めといえば単純な絞り染めと思われがちですが、絞り染めには沢山の技法があり、特に図柄(模様)作りは苦労の多いものでした。

なお、染色業の最盛期は大正末から昭和中頃までで、特に五月五日の端午の節句前には、出世魚の鯉にあやかっての真鯉、緋鯉、子鯉の注文が相次ぎ、武者絵の染め抜き、名前旗等の作成と併せて日夜仕事に追われたといいます。

肥後絣(ひごがすり)

肥後絣はかって農村、漁村で普段着として着用されていた藍染めの木綿織物です。岡町の宮崎染織では大正十(一九二一)年十月、刈草町に「綿布工場」を設立、豊田織機を三十台購入して操業を始め、製品を藍の香りを生かした「肥後絣」と名付けました。

木綿を生産しない川尻で肥後絣を織ることにしたのは、水量豊かな川と長い伝統と優れた染織技術、加えて町周辺農家の人手でした。しかし、生活文化の向上に伴って絣の需要は落ち、昭和五十七(一九八二)年には姿を消してしまいました。貴重な動力織機、力(りき)織機は今はない。残念なことです。

川尻音頭に肥後かすりが謡われていますので紹介します。

三、さあさあ あなたも 川尻音頭ヤレソレソレ

川尻名物、酒 桶 刃物

あの娘かわいい 肥後かすり

川は加勢川みどり川  みどり川

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

31号 2012年(平成24年)8月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

染 物    その一

 

江戸時代からの染物は川尻町が中心でした。城下町熊本を流れる白川の水は阿蘇の火山灰を含み、染まり具合が良くない。従って、坪井川、井芹川のほとりに、僅かの染物店があった程度でした。

川尻町は水郷の町で、しかも町中を流れる河水は染色に適した良質の水です。これらの川筋では染物業が盛んで、明治・大正期の記録では九軒の店が繁盛を続けていました。川尻町の七軒と八幡町、元三町の各一軒です。いずれも大店です。

染料は紅花・藍で、隣町の飽田町史によると近世末期、飽田郡・詫摩郡を中心に特用作物として染料の紅花・藍を栽培しています。これらを川尻の染色業者が主に使用していたと思われます。

紅花

キク科の一年草で、背丈は約一メートル。葉は広披針形で硬く縁にトゲがある。夏、黄赤色の花を付け、その花から製した紅を染料などに用いる。

肥後ではいつ頃から栽培されていたのかは不明ですが、寛永十六(一六三九)年頃の「肥後国郷帳」に[紅]の記載があるのを見ると、加藤氏の時代にはすでに栽培されていたとも考えられます。

天保十三(一八四二)年の「諸御郡惣産物調帳」によると、飽田郡・詫摩郡の生産量が断然多い。しかし明治八(一八七五)年の「飽田郡村誌」によると紅花の栽培は移入紅に圧倒されて激減しています。

藍はタデ科の植物で古く飛鳥時代に中国から伝わり、江戸時代には広く一般に栽培されるようになった染料です。藍は一年草で、毎年種を採り、播いて育て続けねばならないのです。秋に七、八十センチメートルほどの背丈に成長して小花を付けて実を結びます。染料の藍はこの藍の葉から作ります。藍は青色でもないのに、藍の葉を発酵させた液で染めると美しい青色に染まります。

前記「諸御郡惣産物調帳」によると飽田・詫摩両郡の藍の生産量は、肥後藩の生産高の約九十七パーセントを占めています。しかし、明治十三(一八八○)年の「熊本県概要」によると、天保十三(一八四二)年の生産量の約三十五パーセントにまで減少しています。

この衰退の原因は、地藍が浅葱(あさぎ)色しか出せないという難点があり、艶のある美しい濃紺を出す阿波(徳島)産の良質の「藍玉」にその座を奪われたと思われます。さらに、明治中期以降は安価なインド藍、続いてドイツの人造藍の輸入により県内の藍栽培は消えてしまいました。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

30号 2012年(平成24年)6月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

川尻桶    その二

材料

樽の材料は板目で、桶の材料は柾目である。昔は吉無田官山の八十年物の杉古木を使っていたが、材料の枯渇で和歌山産の「さわら」、木曽産の桧(ひのき)を購入した時もあった。しかし、それは一時的で矢部、人吉方面の製材所からの取り寄せが殆どとなった。材料の杉は八十年物、さわらは百年物でないと良い製品にはならないと言われていた。

 

製品

明治時代まで総ての桶類は木製であったが大正時代に入ると、普段取っ手の付いた木製の手桶で水汲みをしていたのが、ブリキや合成樹脂の軽いバケツに代わり始めたように木製品の需要は徐々に減り始めた。さらに昭和二十年の終戦を境に、急速に新素材を使った各種製品に移り始めた。

川尻で製作していた木製の桶やたごの用具を観てみると、海苔桶・肥たご・半切り(牛馬のはみ桶)・米櫃・飯櫃・湯たご(茶会用)・すし桶・湯桶・手桶・漬物桶など各種ある。たらいは「ちょうずだらい」(顔を洗う小さい物)・「下だらい」(おしめ洗い)・「大だらい」(洗濯、行水用)などの三種。現在はすし桶・湯桶・酒樽程度と減っている。

 

製作道具

昔は外ゼン(外側から削る)・内ゼン(内側から削る)・入れぎわ・前ぎわ(外側をえぐる)・だんぎり鋸(丸切り)・板削り(材料を割る)・正直(しょうじき)鉋(がんな)(正確に接着させる)・万力など沢山の道具を使っていた。現在は内鉋・外鉋・底回し鉋・金敷・錐などが主な道具である。

 

仕事納め

十二月三十一日、仕事場を片付け掃除をする。その後三方に白紙を敷き、二段重ねのお鏡餅にウラジロ・ツルノハを挟み、その上にダイダイ(橙)を載せる。前に串柿、おひねり(米)を置き、積み重ねた道具箱にお供えして「一年間ありがとうございました」とお礼をいい、来る年の福徳を祈る。

恵比寿さんを祀る神棚にも同じである。なお、元旦から三日まではお雑煮

も上げる。                 仕事初め

元旦の夜から二日の朝までに、研ぎ水入れの桶・お櫃などを親方の指示で作る。お櫃は普通一日に十個ほど作るが、この朝は六個で終わる。全員が作り終われば酒肴が出て、十日までの正月休みとなる。

 

恵比寿祭り

桶屋祭りとしては特別にはないが、桶屋は福の神、商売の神の「エベッサン」を信仰している。エベッサン祭りの十一月二十日は休業で、床の間に鳥帽子をかぶって鯛を釣り上げている恵比寿様の掛軸を掛け、鯛、お神酒、ミカン、柿などを供える。職人、徒弟には酒肴を馳走し、取引先の商店主を招待していた。

 

木製品の将来

昭和二十年代末より石油化学製品に押され、木製品は次第に寂れて行った。今は、徒弟はおろか製品の注文すら殆どない現状である。日用品の桶から楕円形や箱型の桧風呂製作を始めた家もあったが、強化プラッスチック浴槽の出現で注文はほとんどないという。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

29号 2012年(平成23年)4月20日

伝統産業の町川尻の諸識

川尻桶   その一

加藤清正は慶長六年(一六〇一)~十五年(一六一○)の間に緑川の改修を行い、阿蘇外輪山の木材を内大臣・砥用・甲佐方面から筏で流し、川尻で集荷した。この機に川尻で木材工業が盛んになったと伝えられている。

藩政時代、田町通りには二十五軒もの桶屋が建ち並び、職人と徒弟たち二百五十人ほどが居住する「桶屋町」と呼ばれていた。

明治以降、伊津野家の本家、分家、新家の三家は樽丸屋と呼ばれ、瑞鷹の専属となり、酒仕込み用の五尺桶(高さ一、五三メートル)や四斗樽(七十二リットル)などの容器を作った。また、松本家は樽の修繕を専門とし、瑞鷹の酒蔵を巡回して樽の修理に当たった。昭和九年(一九三四)十月の職業調査によると、新田町の十八軒に他地区の桶屋を合わせた二十五軒が川尻町の重要産業として刃物製造と共に栄えていた。

桶の材料の杉は矢部方面、たがの材料の真竹は木山や隈庄から買い入れていた。ちなみに、桶は被せ蓋で、樽は蓋(鏡板)を落とし、嵌め込んだもである。なお、樽は積み重ねるため、上部を大きく作ったものが一般的だった。

*職人の生活

一軒の桶屋では一般的に、職人は五、六人、徒弟が六、七人ほどが働いていた.職人は家を持ち、通いで働いていたが、徒弟は住み込みであった。

新入りは、最初のうち「研ぎ水汲み」や使い走り等の雑用をさせられる。仕事は、「竹ヘゲ剥ぎ」とか「刃物研ぎ」などから仕込まれていく。「たが」にする竹ヘゲ(ひご)の取り方は三角(梯形)で桶屋独特の方法である。竹細工では平たくヘゲを取って作るが、桶作りは三角にしないと、たがの締め付けが効かないからである。

砥石には数種類あり、研ぐ刃物の種類も多い。全員の刃物を研ぐのが新入りの仕事であった。兄弟子に殴られながら研ぎ方を覚えていく。その他、鉋(かんな)がけ、鋸引きなどきつい修練を積まなければならなかった。

一日の仕事は明け方の掃除から日没の後片付けまで続いた.仕事を終えた夜や一日、十五日の休日には兄弟子たちと銭湯に行ったり、映画を観に行ったり、街で遊び回った。

弟子入りしての二、三年間は小遣いにも窮しており、そのことを知っている兄弟子たちから古着を貰ったり、お菓子を奢って貰うのが順送りでした。

道具の使い道をある程度習得すると、職人の手伝いを離れ自分で桶を製作するようになる。三年ほどで「すし桶」が作れた。この頃から給金も増え、小遣いや衣服の不自由もなくなる。十年間の年季で腕を上げ一人前の職人と認められるのが一般的だった。

一人前になると親方から道具一式が贈られる。しかし、広い仕事場や高価な道具類の購入には費用がかさむため、その後も職人として残って独立資金を蓄える人が多かった。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

28号 2012年(平成24年)2月20日

伝統産業の町川尻の諸識

鍛 冶   その二

柄作りは弟子だけの仕事ではない。子供や女が材料の皮を剥ぎ、後は全員暇をみては手分けして作った。鍬の柄は樫。鎌、包丁は松、椎などで富合、城南、宇土半島の山から取り寄せていた。

昔は「ろくろがな」がなかったので、短い柄の鎌や斧などで削り揃え、後は鉋で仕上げる。その切り屑や削り屑は、火床の火起しに使っていた。鍬の柄などは曲がって堅く工作に難渋していた。後ではその専門の店、鍬形屋が横町に開業したので、皆はその店へ注文をしていた。道具の鞴(ふいご)は大阪へ注文していたが、ピストンは狸の皮を指定していた。他の動物の皮では空気漏れが速いからでした。大正七(一九一八)年頃からモーターで風を送るようになった。鞴に代わって送風機が登場、砥石も動力で回すようになり刃物研ぎも簡単になった。終戦後の昭和二十一年頃ベルトハンマーが導入されると、特別品でない限り向こう槌(大槌)もいらなくなった。

鍛冶用具は鋏、小槌、大槌、金床、万力、ヤスリ、鞴、たがね、水桶、水床、砥石(荒砥、中砥、仕上げ砥)などである。

*釘景気

昔の釘材料は和鉄(砂鉄)で島根地方から購入していた。長さ約一尺五寸(四五、五センチ)、横幅三、四寸(一〇~一二センチ)、厚み二、三分(六~九ミリ)ほどの短冊形の鉄板です。この鉄板を切り割って釘を作るから、大変な手間がかかっていた。江戸末期から南蛮鉄が入手できるようになる。この鉄は線状になっており、一本一本切れば簡単に釘が作れた。このため釘専門の鍛冶屋は蔵を建てたとの話が残っている。明治以降は八幡製鉄所の鉄を購入するようになったが、これを洋釘と呼んでいた。

川尻刃物の特徴は硬い鋼を柔らかい軟鋼で挟み込む「割込鍛造」です。硬軟二種の鉄の塊が火床(ほど)の中で真っ赤に焼けると、鋏で金床に移し、大槌、小槌で交互に叩き不純物を除きながら、硬い鋼を軟鋼で鋏み形を作っていく。少し色が褪めたら、水床に浸して再び火床で焼く。形作りの作業を幾回となく繰り返し、最後は硬鋼の部分の刃先にヤスリをかけ、木製の柄を取り付けて完成する。一人一日の製作量は、鍬三本、鎌一二~三本、包丁六本程度だったという。

*鍛冶屋の風習

①本立寺境内の三十番神堂は 横町の人々が火災予防に島 原の護国寺から勧請した神 様で、毎日を交代で護る三 十二神が祀つられている。

②女性は横座(仕事場で親方 が座る場所)に近づいては ならない。(禁忌)

③大晦日は午前中で仕事を終 え、掃除、道具類を清め、  荒神様を祀る。そして、 火 を灯して一年間の無事を感 謝し、来る年の安全を祈願 する。家の門口や煙突には、 注連縄を張り歳神を迎える。

④一月二日は初仕事。朝二時 頃起きて荒神様を拝み、一 年間神棚に供える「かざり 剣」を作る。その後得意先 から頼まれた用具の製作に 取り掛かる。「初仕事で作っ た物は縁起がよい」と言っ て早朝から購入に訪れた客 を酒肴で接待する。仕事は 午前中で終え、弟子たちは 午後から里帰りして五日ま で休みとなる。

⑤十一月八日は仕事を休み「火 の神様祭り」をする。鞴祭 と呼ぶこの日は、夕方集ま る群集に親方、弟子たちが 屋根から魔払いの密柑投げ を行い、その後得意先を招 いての酒宴を催す習慣で あった。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

27号 2011年(平成23年)12月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

鍛 冶    その一

鍛冶は室町時代の応仁年間(一四六〇~一四六九)に薩摩の刀工、波平行安が、焼き入れに使う良質の水を求めて各地を訪ね歩き、川尻の水を得て当地で刀鍛冶を始めたのが起源と伝えられています。

伝承によれば川尻の横町天満宮北側に刀工の祠(神を祀った社)があり、その付近から波平氏の名を刻んだ石灯籠と無数の金屑、使い古した「ふいご」などが発見されたといいます。なお、石灯籠は、鍛冶の上達を祈願したものです。

この由緒ある横町には鍛冶屋が軒を並べ、通称「鍛冶屋町」と呼ばれ、刀だけでなく各種の用具を作り、商港川尻の盛んな水運とともに発展します。

(専門分野)

鍛冶はそれぞれの専門業者に分かれていました。昭和初期一七軒のうち刀鍛冶・鍔鍛冶・野鍛冶(農具を中心)・包丁鍛冶・船釘・大工釘・馬車・蹄鉄などの分野がありました。

(弟子入り)

高等小学校を卒業(一四歳)すると伝を頼って弟子入りを希望する「徒弟制」でした。弟子入りが決まると親は酒一升と手土産を持ち、子供を連れて親方の家を訪ねて、親方と約束固めをしました。これは本人に厳しい修行の自覚を促す儀式でした。

その日から始まる親方と弟子の主従関係は年季明け後も長期に亘るのが通例でした。昔の年季は技術の習得が目安でしたが、昭和期になると年季はほぼ五、六年で「徴兵により年季明け」とするのが一般的となります。年季の間は無給で、時々小遣い銭が貰える程度でした。

(弟子の仕事)

鍛冶屋の仕事は普通朝の八時頃から夕方六時頃までしたが、新入りは皆より一時間程早くから仕事場の掃除、水床の水替え、炭割り、ほど(火床)の火起こしなどをして親方や兄弟子を待っていなければなりませんでした。

仕事が始まれば、包丁や鎌などの柄作り、刃物研ぎ、水汲みと休む暇は無く、その合間に親方や先輩たちの仕事を覚えていく「鍛冶は見て技術を覚える」の生活でした。

真っ赤に熱した玉鋼を小槌(親方)大槌(兄弟子)で交互に打ち鍛えるさまに目を走らせる。仕事場は薄暗い。暗くしているのは、焼き入れの火の色を見るため。温度は鉄の焼けた色で見る。鍛冶は経験と勘が頼りで、焼き入れには全神経を使うという。

昔の「火床」には松炭が使われ、宇土半島や天草から船で船着場に運ばれて来ていました。炭には大小あるので、大きい物を割って粒揃えをする「炭割り」という仕事もありました。

しかし、燃料は明治二十七(一八九四)年、鉄道が敷かれると、より熱量の高い石炭を使うようになります。河尻神宮前にあった葦原商店が三池の石炭を貨車で注文し、駅から馬車に積替え配達していたといいます。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。