31号 2012年(平成24年)8月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

染 物    その一

 

江戸時代からの染物は川尻町が中心でした。城下町熊本を流れる白川の水は阿蘇の火山灰を含み、染まり具合が良くない。従って、坪井川、井芹川のほとりに、僅かの染物店があった程度でした。

川尻町は水郷の町で、しかも町中を流れる河水は染色に適した良質の水です。これらの川筋では染物業が盛んで、明治・大正期の記録では九軒の店が繁盛を続けていました。川尻町の七軒と八幡町、元三町の各一軒です。いずれも大店です。

染料は紅花・藍で、隣町の飽田町史によると近世末期、飽田郡・詫摩郡を中心に特用作物として染料の紅花・藍を栽培しています。これらを川尻の染色業者が主に使用していたと思われます。

紅花

キク科の一年草で、背丈は約一メートル。葉は広披針形で硬く縁にトゲがある。夏、黄赤色の花を付け、その花から製した紅を染料などに用いる。

肥後ではいつ頃から栽培されていたのかは不明ですが、寛永十六(一六三九)年頃の「肥後国郷帳」に[紅]の記載があるのを見ると、加藤氏の時代にはすでに栽培されていたとも考えられます。

天保十三(一八四二)年の「諸御郡惣産物調帳」によると、飽田郡・詫摩郡の生産量が断然多い。しかし明治八(一八七五)年の「飽田郡村誌」によると紅花の栽培は移入紅に圧倒されて激減しています。

藍はタデ科の植物で古く飛鳥時代に中国から伝わり、江戸時代には広く一般に栽培されるようになった染料です。藍は一年草で、毎年種を採り、播いて育て続けねばならないのです。秋に七、八十センチメートルほどの背丈に成長して小花を付けて実を結びます。染料の藍はこの藍の葉から作ります。藍は青色でもないのに、藍の葉を発酵させた液で染めると美しい青色に染まります。

前記「諸御郡惣産物調帳」によると飽田・詫摩両郡の藍の生産量は、肥後藩の生産高の約九十七パーセントを占めています。しかし、明治十三(一八八○)年の「熊本県概要」によると、天保十三(一八四二)年の生産量の約三十五パーセントにまで減少しています。

この衰退の原因は、地藍が浅葱(あさぎ)色しか出せないという難点があり、艶のある美しい濃紺を出す阿波(徳島)産の良質の「藍玉」にその座を奪われたと思われます。さらに、明治中期以降は安価なインド藍、続いてドイツの人造藍の輸入により県内の藍栽培は消えてしまいました。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。