22号 2011年(平成23年)5月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その一

加藤氏支配時代は郷組制でしたが、細川氏は藩内を六十二の手永組織にして農村を支配しました。手永とは、庄屋が治める村三十カ村位を惣庄屋が支配する仕組みです。

手永の成立は寛永十年(一六三三)ですが、川尻町周辺の村々は四郡十七手永(十八手永の時もあった)に区分けされました。飽田郡の四つの手永。託麻郡の二つの手永。益城郡(上、下)の十の手永。宇土郡の二つの手永です。

さて幕府は幕領からの年貢米を収納し保管する倉庫を元和六年(一六二〇)に江戸浅草を中心に造りました。倉庫は要所の各地にも造られましたが、浅草中心のものが幕府最大の御蔵群です。全国の各藩もこれを契機に御蔵の建築に乗り出します。

熊本藩では三代藩主綱利が延宝八年(一六八〇)二月「家中知行取は従来自分収納なりしを、此時より御蔵米を以て給付と改む」 而して本年より家中三十石手取、江戸御供四十石手取、御合力米・御切米歩一召上げとなる。(官職制度考)という通達がでました。

 

*注解

・通達以前、知行取には農民が直接納入する仕組みだったが、通達後は年貢米を藩に納入させ、藩から知行取に支給する。

・年貢は四公六民で、百石取を例にした給付です。江戸御供の場合は、余計に出費がかさむので四十石を支給する。

・合力米(加俸米)、切米(小禄の家臣に春、夏、冬の三回支給されたる扶持米)の歩(税、手数料)それ相当に差し引く。

延宝八年(一六八〇)五月八日 是月高瀬・川尻・大津に新蔵出来す。

「肥後近世史年表」

川尻には東蔵三棟。中倉三棟。外城蔵三棟ですが、このうち延宝八年にどの蔵ができたのかは不明です。一、二棟ほどの竣工だったと思われます。絵図で御蔵群の場所を推測すると、東蔵は「うなぎの若松屋前の駐車場付近」から「川尻公会堂の東端」位。中蔵は「公会堂西側の駐車場付近」から「JR鹿児島本線」の東側辺り。外城蔵は現在の二棟とその北側に「南向きの一棟」。

この三棟群はほぼ等間隔に並んでいました。何故一箇所にまとめて建てなかったのかという疑問に対し、北野隆熊本大学名誉教授は「米蔵は、火災から守るため離れて蔵群を形成していた」と見解を述べています。

御蔵は一年間の命の綱の米が納入してある大切な蔵ですが、その杞憂が実現したのです。ただし、火災ではなく水害に遭ったのです。

川尻町史によれば天保二年(一八三一)五月、一丈六尺(四メートル八十五センチ)の大洪水、緑川筋、加勢川筋堤防の決壊三十余箇所に及び、殊に川尻外城御蔵に積まれた俵米の浸水一万八百俵に及び、その他町内殆んど浸水し、四日の焼方には延寿寺が倒壊し、寺財什器は勿論、仏体まで流失して了った。本尊不動明王像だけは奉環することができました。

卯年洪水の事

(大田黒家文書)

本町筋にては町中に水四尺余、両田町、小路町にては水六尺になんなんとす。野田村にては二階上へ水上り大慈寺境内にては八尺余の所もあり・・。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。