えびすの つぶやき

2010年(平成22年)6月20日
~川尻小学校~その三
二宮金次郎像

第二次世界大戦で敗北するまで、日本の小学校には例外なく「薪の束を背負い、書物を手にして歩む二宮金次郎(尊徳)の石像、銅像」が校門近く、しかも一番目につきやすい所に置かれていた。
私が小学生の時、修身の時間に金次郎が「子供の頃、わらじを編んでお金を稼ぎ、父のために酒を買った話」や、「両親の死後、叔父の家に預けられると寝る間も惜しんで本を読み、油代が勿体ないと叔父に叱られると、道端や荒地に菜種を撒き、採れた種と菜種油と交換し、それを皿に入れた灯明で勉強を続けた話」を聞かされ、こんな人間になれと教えられた。唱歌の時間には

一、芝刈り、縄綯(なわな)
いわらじをつくり、
親の手を助(す)け弟
(おとと)を世話し、
兄弟仲良く孝行つくす、
手本は二宮金次郎。
二、骨身を惜しまず、
仕事を励み、
夜なべすまして、
手習読書
せわしい中にも、
たゆまず学ぶ、
手本は二宮金次郎。

と三番まである歌詞を歌いながら、自分もこんな人になれたらと思った頃もあった。
天明七年(一七八七)二宮金次郎は小田原藩領、相模国足柄上郡栢山(かやま)村(現神奈川県小田原市栢山)に百姓利右衛門の長男として生まれた。天明期は浅間山の大噴火以来、洪水と飢饉に相次いで見舞われ、百姓一揆が頻発していた時期である。
十四歳で父が死去。その二年後に母も亡くなり、叔父二宮万衛門の家に預けられ、農業に励む傍ら、寸暇を惜しんで読書に耽(ふけ)った。「薪を背負った金次郎の姿はこの頃のもの」である。
荒地を耕して、田植え後の田圃に捨てられている余った苗を集めて植え、収穫するなど収入の増加を図り、災害で没落した生家を二十歳の時に再興した。三十二歳の時、かつての主家服部家財政立て直しの依頼を受け、成し遂げた。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。