えびすの つぶやき

2010年(平成22年)4月20日
御蔵考

御蔵は藩政時代から造り始められたのではなく、それ以前、鎌倉時代の河尻氏、更にずっと遡って律令国家形成の七世紀後半以来、形こそ違え必要建造物であった。それは租・庸・調の収納蔵が必要であったからである。 十禅寺町と平田町の境に印にゃく神社と呼ばれる小社が鎮座している。八代郡鏡町の印にゃく神社の御神体は八代郡の印と、郡倉を開く鍵であるといわれている。 肥後の国府である託麻国府は、中央の都が京都の平安京に移ったのちの八四二年ごろ、現熊本市二本木に移ったともいう。飽田国府の蔵を開く鍵が印にゃく社に祀ってあったのかもしれない。 さて江戸時代、幕府も諸藩の大名も年貢米の徴収に、保管に腐心したことは確かであろう。 肥後細川藩、手永の納入量は寛永十一年(一六七一)の「所々御蔵入之御郡」には

熊本御蔵入 拾八万俵程。
山本、菊池、合志、南郷。 *山本は植木町と鹿央町の南西部
川尻御蔵入 弐拾万俵程。  飽田、託摩、上益城、下益城、宇土。
八代御蔵入 拾弐万俵程。  八代、葦北
高瀬御蔵入 弐拾五万俵程。 玉名、山鹿
大津御蔵入            阿蘇谷、小国
鶴崎御蔵入            久住、野津原、鶴崎

これらの年貢米は、藩の役人によって品質・桝量・俵装などについて厳重な検査が行われていた。ある年、阿蘇郡布田村(現西原村)では熊本城の東蔵(現県伝統工芸会館辺り)に百三十俵を納入した内八十三俵が不合格となり、納入し直さなければならなくなった。仕方なく検査の役人に賄賂を贈ったり、町の米屋から米を購入して詰め直しなどをして、やっと七日目に納入を終えた。「お米納めほど恐ろしき事はなく」と当地では語り継がれたという。 また、次のような事件もあった。 延宝八年(一六八○)までは、知行取は自分の知行地から直接年貢米を受け取っていた。 宇土郡は松山手永と郡浦手永の二つだった。松山手永に知行地を持つその武士は、ここ四、五年凶作続きで予定通りの年貢が貰えず心を痛めていたが、今年は知行地に何回か出向き豊作を感じ楽しみにしていた。同僚間の噂でも豊作だと皆喜んでいた。

ところが知行地の各百姓とも「今年も不作でした」と僅かの年貢米しか届けなかった。不審に思い藩に訴えた。藩が責任者の惣庄屋・関系庄屋八名を吟味した結果、惣庄屋は検見役の藩役人を出来柄の良くない土地に案内し、この地方は不作だと告げ、収穫の上前をはね、庄屋たちには口止めをしていたことが判明した。 惣庄屋松山吉兵衛は打ち首、庄屋八名には惣庄屋の指示故罪はないとし、年貢米皆済後釈放している。 川尻・高瀬・八代の御蔵は津端三倉と呼ばれ、川尻弐拾万俵のうち拾五万俵は大坂中の島の蔵屋敷へ運ばれる。千石積みの船を緑川河口に停泊させ、川尻船着き場から二百石積み程度の船で運搬し、沖合で積み替えをしていた。「肥後川尻町史」によれば、宝暦・明和頃の川尻所在の御米船は

幸寿丸(千二百石)
御米船
白梅丸 松梅丸(弐拾反帆)
老松丸 十七反 弐拾反帆
十五反 十五反 十五反
十八反 十三反       計 拾壱艘
   *廻船問屋の御米輸送は省略

五万俵は内陸水路で熊本の東蔵へ運ばれた。内陸水路とは川尻~熊本間の物資輸送の大動脈で、鎌倉期まで川尻地区へ流れていた白川の跡を、初代細川藩主忠利公が掘り上げ、水路としたものある。当時、川尻港に着いた物資は、城下町熊本へ馬で運ばれていた。熊本へ船で運べば便利だと考えた忠利が、そのことを家臣に話すと「水路を造れば駄賃馬が少なくなり、戦のとき困る」と反対者が多かった。だが忠利は幕府に高瀬船が通行できるよう拡張したい旨を願い出、寛永十七年(一六四○)に認可を得たのある。 水路は「郵便局」とか「くらし館」のある川尻市道バイパス(旧川尻電車軌道)を通り、河尻神宮の東側(現在小さい水路となっている)から市道沿いをJR線路に沿うように通り、上の郷の三本松から白川にでて遡上し二本木まで。ここで水夫は俵を担ぎ塘を越えて、坪井川で待つ船に荷(俵)を積み替え、現在の熊本市役所前厩橋まで運び、ここから東蔵へ担ぐなどして運んだという。 内陸水路の川幅は約七~九メートル。両岸の小道を、一艘に四十一俵を積み、数隻の船を繋ぎ、船頭は舵を取り、水夫が両側の小道岸からロープで船を引っ張って運んでいた。 運ぶ方法は坪井川も同じだが、坪井川は川幅が狭いので小舟であった。一艘に何俵積んだかは不明である。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。