えびすの つぶやき
22009年(平成21年)9月20日
~先進的大名 その一~島津斉彬
黒船に驚いた日本国中が「攘夷」「開国だ」と騒いでいた時、そんな単純な議論に惑わされることなく、藩の近代化、国際化を進め、外国に追いつくことに専心した大名が九州に二人いた。薩摩藩二十八代藩主島津斉彬(なりあきら)と肥前佐賀十代藩主鍋島直正(なおまさ)である。 斉彬は部屋住みの頃から洋学につよい関心があり、欧米並みの軍事力や新しい産業技術を興そうと考えていた。 その当時、長崎から流れ来る情報に、イギリスと隣国清との間で起きたアヘン戦争。それにより受けた不平等条約・重税による民衆の暴動。それら清国での惨状等を聞き、斉彬が強い危機意識を持って取り組んだのが海防問題である。
欧米並みの軍艦、大砲を製造する施設として城内に精錬所、磯御殿に反射炉や溶鉱炉などを持った近代的工場集成館を設計するなど着々と準備を進めた。特にペリー来航後は軍艦には軍艦で対抗するしかないと、幕府に大船建造の解禁願いを出し、蒸気機関を持たない西洋式風帆船を藩の研究者たちに手始めに作らせている。
さらに斉彬は薩摩藩が率先して近代化を成し遂げ日本の政治を改革することを志していたのであろう、洋式紡績工場の開設など明治政府の「殖産興業」の先駆けをなしている。斉彬は倒幕論者ではない。朝廷・幕府や雄藩が力を合わせ(公武合体)新しい国造りを行うことを理想としていたのである。目指すところは日本の近代化であった。 ところで、各国とも船にはその国の旗を揚げている。国際的慣行により掲揚船はその国の領土と同じだと言う。斉彬は、早速我が国の旗印は、日出づる国に相応しい太陽をかたどった日章旗をと幕府に意見書をだして制定させるなど、東洋諸国の二の舞にならぬよう、先進国と対等の交易と外交を強く推し進めたのである。 しかし、安政五年(一八五八)志半ばにして世を去った。鹿児島市の照国(てるくに)神社の祭神、斉彬公は嘉永四年(一八五一)四十三歳で襲封、安政五年の他界まで僅か七年間の治世でしたが、広い視野に立ち、領民の生活向上を図ることに意を注ぎ、なお西郷、大久保といった有能な人材を育成したことなど、藩内だけではなく、日本国に数々の福を与えた大恵比寿様であったのです。
川尻文化を考える会 代表 西 輝喜