43号 2014年(平成26年)6月20日

(いかだ)流し その一

川尻町発展の基は筏だった、と言っても過言ではありません。その筏関連の文献を町史や資料から拾ってみますと

 川尻町史 御作事所

 「官職制度考」には船の作事、米倉、所々官署の造作を掌る。と定められています。これらは川尻御大工棟梁の竹内家当主が、代々大工を指図して御用を勤めていました。御用材は砥用、甲佐御山から伐り出され、筏で緑川を下り運んでいたのです。

肥後国誌 

桑津留村の小村として「舟場村」が記載されている。文化十(一八一三)年の「緑川上流通漕碑」によりますと「文化四年から同九年にかけて河浚をした結果、桑津留から豊内(甲佐町)までの通漕が可能になった」と記しています。

砥用町史

「明治四十(一九〇七)年頃には、柏川奥の国有林の直径六十センチメートル位の大きな木材で柏川をせき止め、水が深くなったところで放水して木材を流し、明無瀬の緑川本流で筏を組んで流していたが、だんだん水が涸れて、大正の初めには宮内(甲佐町)の淀淵までバラで流し、淀淵で筏を組んでいた」とあります。

以上の資料から年々緑川の水量が減っていったのが分かります。

甲佐町宮内の西原地区は、矢部・砥用・甲佐の材木集積地でした。ここには四十人ほどの筏師がいて川尻まで材木を運ぶのを生業(なりわい)としていました。

川尻町には五、六軒の山師を職業とする家がありました。山師とは山林の買い付けを仕事とする人達です。その人達は矢部町の内大臣山や砥用、甲佐などの山々を歩き回り、気に入った山林を買い付けました。

買った杉、桧の立木は(きこり)が伐採して六メートルの長さに切り揃えます。立木は直径四、五十センチメートルの五十年ものがほとんどで、その材木は一年間ほどその山に置き、水分を抜きます。翌年、樵は山師から指示された日までに牛に材木を曳かせ舟場へ運びました(馬では材木に傷がつき易い)。

筏師の段取り

一日目「藤カズラタチ」と言って、グループ全員が(なた)(かま)を携え、幾キロも歩いて山奥に分け入り、藤カズラ取りです。採取したカズラは夕方、山ボコに差して担って帰ります。

二日目 集めてある材木を八本横並びに藤カズラを廻して結び付ける。これを棚といい、その幅は三メートルにもなり、この棚を一メートルほどの間隔で、四組をカズラで繋ぐ。つまり、四輌編成の電車のように縦に繋ぐのです。

間をあけるのは、川の流れが蛇行したり、曲がったりしているので筏全体を曲がり易くするためで、これを一挺といい、二人一組で一挺の筏を作るのです。

三日目 握り飯を風呂敷に包んで腰に結わえ、地下タビ、キャハン姿の筏師達は朝三時に川辺に集まり一挺の筏に二人ずつ乗ります。普通七挺編成で、総勢十四人です。用意してある長さ四メートルほどのマタケの(ミザオ)を各挺に五、六本積み込むと出発です。

西 輝喜

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。