40号 2013年(平成25年)10月20日

砂利(じゃっ)()り舟 その一

私がこの川尻町に居を移した昭和二十九年、五・六艘の砂利取り舟が連らなって棹を巧みに操りながら緑川を遡上していた姿に接した時、その牧歌的な風景に感動を覚えました。

当時、砂利は道路工事や鉄道関係からの需要が多く、川尻に荷揚げする舟は百艘を数えたそうです。

まず、日本の道路行政を考察してみると、江戸時代まで人馬による徒歩交通で車輌の普及は制限されていたようでした。つまり江戸時代の土木行政の重点は治水灌漑に置かれ、軍事的考慮からか、道路の新設とか改修にはいろいろ制限がなされていたのです。

文久三年(一八六三)、十四代将軍(いえ)(もち)が上洛時、箱根山中のぬかるみに丸石を入れ道路の補修をして通行した記録がある程度の道路行政でした。

明治維新前後から道路が砕石道、砂利道になっていくと駕籠にかわって人力車、荷馬車、客馬車、自転車、自動車等が相次いで登場するなど一気に交通形態が変わり、砂利、バラス、砂の需要が高まるばかりでした。

ちなみに川尻町の重要幹線、薩摩街道は幅員僅か五メートル余。しかも屈曲急な部分もあって危険な常態でしたので、昭和九年十一月に新町橋まで幅員十三メートルの直線砂利道に改修されました。

限りなく需要が多くなる砂利の採取は、河岸を護るため「河川法」で厳しい制限がありました。川尻町付近では、城南町の仲間(なかま)河原(丹生宮(にゅうのみや))だけが採取許可区域でした。

川尻近くで砂利が多いところは採取禁止区域の河川敷(高水敷)近くです。その河川敷には養蚕農家が桑を植えていたので、この近くの砂利を掬い揚げると桑畑が崩壊する恐れがあり、農家との対立が絶えませんでした。農家からの連絡があると、県の河川課とか警察からの巡視があっていたようです。

砂利取りをする舟は、小回りのきく底が浅い五枚舟の川平田で「砂利取り舟」と呼ばれていました。この舟は江戸時代、農村からの買い付け、日用雑貨の集落地への輸送、御」船・甲佐地方への米搗き等に利用されていましたが、明治期の経済流通の著しい変革により、殆どが砂利取り用に転用したそうです。

夏も冬も夜明けとともに家を出て舟係留地に向かい、待ち合わせの人達と丹生宮の砂利取り場へ出発する。

各々適当な場所に陣取ると川底の砂利をジャッタブという塵取り型の容器で掬い揚げる。舟一杯に積み込むと下流の川尻へ櫓を漕いで下る。(上流へ向かう時は棹)高村の千本杭の難所を通過し一キロメートル程下ると加勢川との合流点、うっ出し(通称マイタ、マイタ)に差し掛かる。

加勢川の水位は緑川より四尺(一メートル二十センチ)ほど高い。ここより緑川と加勢川とは並行して流れているが、水位の落差が二尺もあるため石の堤防で仕切られていた。従って、激流のうっ出しを二尺も遡って加勢川に水路を変えることは到底出来ない。そこで川尻や江津方向に行く舟のため、軸を手動で回し舟を引き上げる施設とそれを操作する人が待機していた。

舟から「マイタ、マイタ」と叫ぶと、番人が八番線の針金を三本より合わせたロープの引っ掛けを回してくる。船頭がそれを舳先に付けると番人は軸を回して加勢川へ引き上げる。じゃりとりの人達は、その代金二、三銭を払って通過すると、次は最大の難所「大渡橋下」が待ち構えている。

西 輝喜

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。