41号 2014年(平成26年)2月20日
砂利(じゃっ)取(と)り舟 その二
大渡橋下は「百間端」とも呼ばれ恐れられていました。流れが速い上、沢山の橋杙が立っている。舳先がこの橋杙に当たれば、舟はその衝撃で沈没するどころか、投げ出される船頭の命さえ危ない。
五、六艘連なって通るが、後ろの熟練者から「おさえろ」「ひかえろ」等と注意が飛ぶ。おさえろとは舳先を右へ、ひかえろとは左へという指示である。誰れしも命がけで櫓を操る。何十年船頭をやっていても、「この難所を過ぎるとほっとしていた」という。御蔵前の船着場で砂利を降ろすとすぐに引き返す。
普通午前中二回、午後一回の砂利掬いであったが、後半は腰が痛く、腕もしびれる重労働でした。
服装は筒袖の着物に素足のため、冬は背中に綿入れ半てん等を着込んでいたが、腰まで水につかるので、寒さで手足はかじかみ紫色になっていた。昭和の初め頃から作業服が店頭に出回ると仕事もし易くなり、昭和十六年ダバが発売されると、幾分かは寒さから逃れることが出来たそうです。
昭和十八年末、加勢川は現在の川筋となり大渡橋下を通る河川は廃止された。従って、マイタ、マイタの施設も不要となり撤去されました。
それ以降、舟は大禅寺河原に係留して置き丹生宮で採った砂利は大禅寺河原に積み上げ販売されていましたが、採取の機械化や需要の低下とともに昭和四十年代、砂利取り舟はその姿を消してしまいました。
なお、業者が機械掘りに使用した巨大な用具も採算が合わないのか、中牟田閘門の少し上流に放置されたまま無残な姿をさらしています。
[引っ込み線]
三ヶ所九棟あった川尻米蔵(御蔵)も明治になると、外城蔵二棟を残して取り壊されます。この二棟は後に米券倉庫として活用されました。
明治二十七(一八九四)年八月十七日、川尻停車場(駅)に汽車が来ました。当時は九州鉄道会社という民営の会社でした。
この頃二棟の米蔵に収められた米の輸送は船、荷馬車、貨物自動車等と多様でしたが、遠方への輸送は船に代わって鉄道貨物輸送となったのです。
停車場から鉄道線路の東側(現在は道路) に沿って船着場の道路まで線路が敷かれました。米券倉庫(御蔵)に収納されていた米は係の厳しい検査を受けると、仲仕が担いで鉄橋の東側に待つ貨車へ積み込む、積荷を満載した貨車は重い。仲仕や屈強な若者たちが肩に厚い布を当て、貨車を押して無田川に架かる低い鉄橋を越え、現在の川尻小学校樹木園を通り、裏無田川の鉄橋を渡り停車場まで運んでいました。
引っ込み線はやがて米だけではなく、砂・砂利の輸送にも利用されるようになると、緑川の砂利取りは一躍盛んとなりました。船着場の岸に積まれた砂や砂利は「ジャリ」と呼ばれていた人夫達が浅い丸ショーケや畚を天秤棒で担ぎ、無蓋車に積んでいました。
ジャリは一回毎に「札」を貰い、最後にその札を監督に差し出し、賃金を受け取っていました。
この貨車積みも昭和十三年まででした。
西 輝喜