38号 2013年(平成25年)6月20日

忘れ去られる地名    その四

 西村 「肥後国誌」では託麻郡本庄手永に属し、若宮大明神社が記してあります。「国郡一統志」には若宮 観音が見えます。明冶七年(1874)合併して元三村となりました。

 平野  南北朝期に書かれたと推定される詫摩文書に「一所、平野の屋敷事」と見え、詫摩氏が当地内に屋敷を持っていたことが分かります。

 近世の「肥後国誌」では本庄手永に属し、天神社があります。「国郡一統志」では「天神二所」と記されています。明冶七年合併して元三村となりました。

 岡町  若宮神宮に近いため、鶴が岡八幡宮の岡をとって岡町。人々の敬神の念が篤いことの表れが、岡町の町名となったのでしょう。

 椎田村 慶長十二年(1607)の検地帳に志井田村と記され、肥後国誌には椎田、北・中・南椎田と記してあります。

 八幡町 八幡信仰は大分県の宇佐八幡宮に代表される信仰で、平安朝初期の貞観二年(860)平安京鎮護として石清水に勧請された後、清和源氏一族の氏神として、武神的性格を強め武士の守り神として全国各地に勧請されました。河尻神宮の主神が鶴岡八幡宮であり、その縁で八幡の地名が付いたと考えられます。 

 明冶七年(1874)、椎田村、北・中・南椎田が合併して八幡村になり、昭和十五年熊本市と合併して八幡(やはた)町となりました。

 

*地名の原点は小字(こあざ)です。参考までに椎田の下げ名(小字)を記してみます。

 高 田  タカタ     田潟、潟の意?

 北堀川  キタホリカワ  北方の用水溝

 村 東  ムラヒガシ   集落の東

 北村脇  キタムラワキ  分かれた、分村

 壱町畑  イッチョバタ  壱町もある広い耕作地

 東 原  ヒガシバル   集落の東、ハルは開くの意

 楠 原  クスブン    砂地の海、崩壊地形を示す。分は区分

 北ノ前  キタノマエ   前面。特に寺社、仏閣の前方。

 鳥居崎  トリイザキ   神社、鳥居のある所

 小 碇  コイカリ    田に引く水路の水門。堰(せき)

 八反田  ハッタンダ   一枚で八反もある広い田圃

 六反田  ロクタンダ   JR無田川鉄橋付近。広い田圃の意。

 城ノ後  ジョウノシロ  河尻城のうしろ

 椎田屋敷 シイダヤシキ  江戸時代の庄屋(しょうや)の屋敷跡  

 乾角屋敷 イネズミヤシキ 亥(イ)は北西、子(ネ)は北

 

地名は古来から、その場所を自他に示すために使用し続けてたものです。その由緒ある地名も消滅の危機が訪れています。私たちは改めて地名の持つ意味と、その重みを再検討する必要があると思います。地名を残すためには、日常生活の中で「その地名を多く使い続けること」も一つではないでしょうか。

                                                                                                                                    西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。