えびすの つぶやき

2009年(平成21年)4月20日


~船の魅力その二~


幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)3月20日
~船の魅力その一~

「天の鳥船(あまのとりぶね)」という古代語があります。海を往く船を天翔ける鳥に見立てたのでしょう。船は人間が造った水に浮かぶ道具にすぎませんが、古代人は天まで駆け上りそうな想像に駆られたのでしょう。まさに魅力です。 天正十六(一五八八)年、肥後の国に入国した加藤清正は、関ヶ原合戦(一六〇〇)の後に大型の貿易船を建造しました。この貿易船は長さが二十間(三十六メートル)、横五間(九メートル)、船の中には十六畳もの座敷があり、風呂まで用意してあったといいます。積載量は二百八十トンで豊臣秀吉の日本丸に匹敵する大型船でした。 この時代、ヨーロッパでは重商主義の発展期で、スペインやポルトガルがアジアに勢力を伸ばし、日本では秀吉の天下統一政権ができ、アジアでの外交関係が生じ、いわば明治維新後の黎明期に似た時代でした。
清正は京都の貿易商人を通じ、領内でとれた小麦を外国に売って、生糸や鉛、塩硝を買い、購入価格の倍ほどの値段で国内に売りさばいています。これが文禄、慶長の出陣、熊本城築城などの財源になったのは確かです。 慶長八(一六〇三)年、江戸幕府が開かれると清正は徳川家康から西洋、シャム・コウチ(ベトナム)への朱印状をもらい、自ら貿易に乗り出しました。 しかし、慶長十四(一六〇九)年、徳川幕府は五百石積以上の船は軍艦、荷船を問わず建造、所有を禁じました。もし禁じなければ西国の大名たちが、船を結集して江戸攻撃を企てたり、資金を蓄え軍備拡張に走ったりするのを恐れたのが、禁止した理由のようです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)1月20日

~坂の上の雲~

指折り繰れば、今から三十年ほど前、作家の司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」という題名の本が出版されました。この本の紹介が「坂の上にぽっかりと雲が浮かんでいる。その雲を見つめて人々は一歩一歩坂を登って行く、そこで題名を坂の上の雲とした」と確かこんな文でした。私はこの題名に魅せられて、書店に足を向けました。内容は、明治黎明期の青春群像が青空に湧き立つ白雲のように爽やかに描かれており、私は深い感銘を受けたのを覚えています。では私たちの坂の上の雲とは・・・・。  昨年八月十五日、川尻の伝統行事「精霊流し」に加え、十三日から十七日まで工芸会館で「水あかり展」が開かれました。入館者を幽心に残る催しでした。続いて八月三十日には、新町橋近くの加勢川河川敷で「夜市」が開催されました。川尻青年協議会の若者たちが企画したこの夜市には、千五百人もの人々が集い、食事やゲームに興じました。これら地域を活性化する行事が次々と展開され、新しい風、新しい息吹に心を動かされたのは私だけでしょうか。 昔、繁栄を極めた川尻町の再生には、これだという方程式はないかも知れませんが、町の人々全員が「坂の上の雲」を見つめ、英知を出し合い、「坂を登り始めること」こそ、町活性化の道だと信じてやみません。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)1月20日

~水の駅川舟考~

陸上交通を中心に考えれば、川は障害のひとつに過ぎないだろう。しかし、昔は全く違っていた。川は水路であり、自然が与えてくれた水の道であった。
明治初期の北海道開拓史を紐解けば一目瞭然である。人々は海から川を遡って物資を運び、次々に新天地を開拓していった。開拓したそれらの土地と土地が道路で繋がったのは、ずっと後のことである。
世界史的にみても、海の男たちがクジラを追って大海原を駆け巡ったことで、世界の七つの海がひとつに結ばれた。黒船による日本の開国は、そのひとつの結果に他ならない。
白川、緑川、加勢川の3つの河川は、かつて川尻で合流して九州を代表する大河となり、有明海へと注いでいた。先祖は海を伝い交易、また川を利用して上流域の人々と物資の交換を続けて町に繁栄をもたらした。上流域の人たちは、1日に幾艘もやって来る「物資を満載した平田舟」を心待ちにしながら、平田舟に親しみを持って「川尻舟」と呼んでいた。そして、この川尻舟は、いたる所にその痕跡を残している。小川が流れていた熊本市東部の健軍神社近くにもその言い伝えが残っている。さらに、川尻舟だけではなく遠く中国のジャンクの足跡さえ残っている。同じく熊本市東部を流れる秋津川の畔(秋津町)には、三官屋敷という地名がある。三官とは中国官吏の登竜門「科挙」に合格した人が、貿易の実務担当者として日本に派遣され、その仕事に従事していたことの名残である。
さて、世の中は陽があれば必ず陰がある。川尻の繁栄の陰には、水害の復興や水路の開拓などさまざまな住民たちの苦労があったであろう。それらの陰を乗り越えた「先人たちの労苦」を心に刻み「町全体がひとつ心で再生への道を歩み続けたい」と念じている老人のつぶやきが聞こえる。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

えびすの つぶやき

2008年(平成20年)12月20日

~芽吹き始めた文化を考える会~

川尻町にしかない「藩蔵」、昔のままの「船着場」、「お船手渡し」などの得難い貴重な文化財を軸にした町活性化への取り組みが、やっと芽吹き始めました。


新聞を開くと、毎日のように各地の地域づくり活動が紹介されています。マチの活性化を図らねば、マチは寂れるばかりだから。 藩政時代、肥後五ヶ町のひとつとして栄えた私達の町川尻も、昔日の面影はありません。昔の河川港は消え、今は大型船が交易主体の海港の時代です。昔に還るよすがもありません。しかし祖先が営々として紡いできたこの川尻の歴史に、目をつぶっていることは出来ません。川尻の町には川を中心に発展してきた独自の歴史と文化があります。このマチの財産を活かし、町を活性化する取り組みが「文化を考える会」の基本構想です。 国土交通省の「川べり散策路」も来年度には仕上がると思います。 古い格言に「ローマは一日にして成らず」とあります。これは「何事も多大の努力をしなければ、成し遂げられない」の意です。 町に住む人達が、マチの誇りを知り、それを生かす町づくりへ取り組むことこそ、活性化の道です。 川尻の来訪者に満足して頂けるマチの魅力を各地に発信することなど一丸となった郷土愛の結集こそ、繁栄への道だと信じます。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

えびすの つぶやき

2008年(平成20年)10月20日

熊本市の政令都市指定、九州新幹線の全線開通を目前にして、私たちの周りは大きく変化しようとしています。また、世代の認識や意識も移ろう中にあっても、川尻の輝かしい伝統と歴史は、私たちの大きな誇りであり、心の絆でもあります。 しかし、この輝かしい歴史と伝統が今、風化の危機に晒されています。川尻の伝統と歴史を何らかの形で後世に残すことは私たちに課せられた責務であり、今こそ「水と緑と歴史のまち川尻」に賑わいを取り戻したいと存じます。すでに川尻文化を考える会準備会による準備と検討が重ねられてきましたが、ここに川尻文化を考える会を発足させることとなりました。以上の趣旨にご賛同を賜り、各位のご協力をお願いする次第です。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。