えびすの つぶやき

2009年(平成21年)11月20日
~先進的大名 その三~
鍋島直正(閑叟)

幕末、佐賀藩ほど近代化された藩はなかった。軍隊の制度も兵器もほとんど西欧の一流国並みだったという。
鉄砲と言えば火縄銃のことだと思われていた頃、佐賀の銃器工場では雷管式のゲーベル銃を製造していた。後進藩が「装備は洋式銃」と気付き始めた頃、佐賀藩はその銃を他藩に売って、当時世界で最も新鋭な後装式の単発銃を買い入れていた。
鍋島閑叟は「葉隠」という独特の哲学を持った佐賀藩の殿様だが、そういう観念よりむしろ近代工業を信じ、藩国家をヨーロッパの一流国並みの軍事国家に仕立てて行く以外は、何も考えていなかった。
嘉永二年(一八四九)日本最初の製鉄所を造り、洋式銃器の製造を始め、安政年間には造船産業を興して国産の蒸気軍艦製造に乗り出している。これらの産業開発のために藩の秀才を選抜して英語、数学、物理、機械学を学ばせ、極端な勉学を強いた。閑叟は秀才たちに「勉学は合戦と思え」と訓示した。
ところで佐賀藩には地の利があった。代々幕命によって長崎警備を担当していたので長崎からさまざまな国際知識を吸収することが出来たのだった。
筑後川の河口にある三重津の藩海軍所港内には、厳重な入領禁止がしかれている。そこに改良されたアームストロング砲を積んだ英国船が入港した。積荷が降ろされ、大砲倉庫に運び込まれた時、閑叟は藩の西欧機械関係者たち六十騎を連ねて検分に来た。
アームストロングの砲身は鋼鉄だけに、それまでの青銅砲や鋳鉄砲とはまるで違う。閑叟は藩士たちに「これが作れるか」と問うたが、このような強靭な砲身をどのようにして作るのか藩士たちは検当もつかない。
その日から藩士たちの研究が始まった。「これをやらねば、佐賀藩は列強に立ち遅れる」閑叟は超人的な努力を強いた。元治元年(一八六四)の暮れ、精煉できる特殊な炉がないため主任藩士は万策尽きて発狂した。
慶応元年(一八六五)の夏、他の洋学研究者によって炉が完成、翌慶応二年の春、最初の試作品二門が出来た。長崎から駆け付けたイギリス人の兵器商人は、驚いて「英仏以外にこれを造れる国はない」と言ったという。
慶応四年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いで薩長が幕軍を敗走させた後、強い出陣要請を受けていた閑叟は、やっと重い腰を上げた。薩長としては、京を抑えたとはいえ、日本最大の洋式軍隊を持つ肥前佐賀藩を味方に引き入れなければ、徳川勢力を潰すことは難しいからだ。佐賀藩は蒸気軍艦「孟春」に歩兵を乗せ三重津港を出港させた。
江戸開城後、旧幕臣を中心に彰義隊三千人が上野寛永寺に立てこもって抵抗した。旧幕軍はフランス製山砲七門を持ち、上野の山を城塞化していた。これを包囲せん滅するには十倍の兵力が要るのに官軍の兵力は二千人。その上、江戸は灰燼に帰す。佐賀藩は本郷台に陣をとり、アームストロング砲を加賀屋敷に据えた。五月十五日、上野へ進む官軍の兵が見える。彰義隊を市中に散らさないよう一瞬のもとに粉砕せねばと点火した。尖頭弾は吉祥閣に命中し吹っ飛んだ。彰義隊はせん滅し、戦いはうそのように終結したのだ。
会津藩鶴ヶ城の攻防戦においても、アームストロング砲が切り札の役割を果たしたことを思えば、どこかに「葉隠精神」に通じるものを感じる。



川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)10月20日
~先進的大名 その二~
*川尻に宿泊した島津斉彬

斉彬の没後、藩政の実権を握ったのは国父久光(斉彬の弟、藩主忠義の父)でした。久光は「藩兵を率いて上京し、勅命を得て幕政改革を断行する」という兄斉彬が果たせなかったシナリオを自ら実行しようとしたのです。 文久二年(一八六二)三月十六日、兵一千人を率いた久光は上洛の途につく。行列には野戦砲四門、小銃百丁を荷造りして、普通の荷物に見せかけて運んでいる。
同行した大久保利通の日記。
注.*印は注釈、( )は現代の時刻
三月二十二日 雨
今日六ツ半(六時)八代 *八代出発 二里
種子山御小休
小川 御休                 一里拾丁
豊福村御立場 *休息          一里拾丁
古保里御立場 *休息          一里
川尻 御泊
右之通諸所御休二而日入前御着
一、今晩五ツ過肥後藩河上彦斎、青木入来。是非逢度と之事候得共供頭へ御逢可被給申入不逢候事。
*右の通り諸所お休みにて日の入る前にお着き。今晩五ツ(八時)過ぎ、肥後藩河上彦斎(げんさい)、青木がきて、是非会いたいとの事であったが、久光は供頭へ会うよう伝え会わなかった。*宿泊所は現在の瑞鷹酒造内で、小路町に本陣跡の標柱がある。その標柱の南東一帯が当時の待賓館で、藩主やその一族の宿泊場所でした。記録はありませんが、一千人もの集団、小路町の混雑ぶりが目に浮かんできます。訪ねた肥後藩の河上彦斎は、通称人切り彦斎と呼ばれる血気盛んな勤王志士で、同志の御船手出身の青木保弘とともに「討幕のため島津久光が出兵する」と勘違いして、同行の懇願に来たのですが、勿論久光が許可する筈はない。供頭は拒絶している。他の藩でも同様なことがあったようです。
三月三日晴
御目覚七ツ半(四時)   *松明を使わないよう朝は薄明かりに出発
川尻 六ツ半(六時)御立 夕方は早く宿に着くのが慣例でした。
一里半余 熊本入口御小休 *迎町の薩摩屋敷
御馬下村 御立場       *角小屋
植木 御休
木之葉御小休
高瀬着七ツ時(四時頃) *宿泊は菊池川の畔にあった熊本藩の御茶屋
*鹿児島を立ってから十六日目、一行は下関で船に乗り海路京都を目指した。久光上洛の報は広く知れ渡り、尊王攘夷を唱える浪士たちは、京都に結集する。彼らも噂で久光は倒幕の挙兵だと思い込んでいたのです。 四月二十三日 薩摩の勤王派は伏見の船宿・寺田屋に集まっていた。久光は最後の説得(解散の命令)に腕利きの八名を送り込んだ。使者の必死の説得、話し合いにも勤王派は応じず、結果は上意討ち。必殺示現流(じげんりゅう)同志で切り合う大惨事となり、命を落としたのは勤王派の有馬新八ら十名だった。 寺田屋騒動は朝廷の久光に対する信用を一気に高め、久光は望み通りの勅使の警護役として、朝廷の権威を背に江戸に赴き幕政改革の要求を貫いた。帰途(文久二年八月二十一日)生麦(現横浜市鶴見区)で大事件を引き起こし、これが翌年七月の薩英戦争の原因となった。しかし、これらの事件も煎じ詰めれば明治維新を早める結果となったのです。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

22009年(平成21年)9月20日


~先進的大名 その一~島津斉彬


黒船に驚いた日本国中が「攘夷」「開国だ」と騒いでいた時、そんな単純な議論に惑わされることなく、藩の近代化、国際化を進め、外国に追いつくことに専心した大名が九州に二人いた。薩摩藩二十八代藩主島津斉彬(なりあきら)と肥前佐賀十代藩主鍋島直正(なおまさ)である。 斉彬は部屋住みの頃から洋学につよい関心があり、欧米並みの軍事力や新しい産業技術を興そうと考えていた。 その当時、長崎から流れ来る情報に、イギリスと隣国清との間で起きたアヘン戦争。それにより受けた不平等条約・重税による民衆の暴動。それら清国での惨状等を聞き、斉彬が強い危機意識を持って取り組んだのが海防問題である。
欧米並みの軍艦、大砲を製造する施設として城内に精錬所、磯御殿に反射炉や溶鉱炉などを持った近代的工場集成館を設計するなど着々と準備を進めた。特にペリー来航後は軍艦には軍艦で対抗するしかないと、幕府に大船建造の解禁願いを出し、蒸気機関を持たない西洋式風帆船を藩の研究者たちに手始めに作らせている。
さらに斉彬は薩摩藩が率先して近代化を成し遂げ日本の政治を改革することを志していたのであろう、洋式紡績工場の開設など明治政府の「殖産興業」の先駆けをなしている。斉彬は倒幕論者ではない。朝廷・幕府や雄藩が力を合わせ(公武合体)新しい国造りを行うことを理想としていたのである。目指すところは日本の近代化であった。 ところで、各国とも船にはその国の旗を揚げている。国際的慣行により掲揚船はその国の領土と同じだと言う。斉彬は、早速我が国の旗印は、日出づる国に相応しい太陽をかたどった日章旗をと幕府に意見書をだして制定させるなど、東洋諸国の二の舞にならぬよう、先進国と対等の交易と外交を強く推し進めたのである。 しかし、安政五年(一八五八)志半ばにして世を去った。鹿児島市の照国(てるくに)神社の祭神、斉彬公は嘉永四年(一八五一)四十三歳で襲封、安政五年の他界まで僅か七年間の治世でしたが、広い視野に立ち、領民の生活向上を図ることに意を注ぎ、なお西郷、大久保といった有能な人材を育成したことなど、藩内だけではなく、日本国に数々の福を与えた大恵比寿様であったのです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)7月20日


~船の魅力その三~


当代随一の国際通、勝海舟の「ものの見方」に接した坂本竜馬は、その説に心酔し、己の道が開けた感動に駆られていました。 竜馬の率直な人柄を愛した勝は、新しく開いた神戸海軍操練所の塾頭を任せます。ところが元治(げんじ)元年(一八六四)の池田屋事件と禁門の変(蛤御門の変)に、操練所の塾生が加わっていたことが発覚し、勝は幕府に咎められ失脚、操練所も閉鎖されました。 この時、行き場を失った竜馬ら塾生三十名を勝が託した相手が薩摩藩の若き家老、小松帯刀(たてわき)でした。元治元年の暮れ、大坂薩摩藩邸で帯刀と竜馬の運命的な出会いとなったのです。共に「無私の精神」で新しい日本の実現に奔走した帯刀と竜馬。これが回天の大事業の切っ掛けでした。

帯刀は長崎に彼らを連れて行き、長崎の豪商、小曽根家の援助を得て亀山社中を結成します。後の海援隊(貿易商社)の誕生でした。

帯刀と竜馬は日本のあるべき姿について語り合うようになります。主義主張が異なり、犬猿の仲である薩摩と長州が手を携えれば、幕府と正面切って対峙できる。それどころか討幕も夢ではない。若い二人が考えたのは、この連帯策でした。 竜馬は動いた。慶応元年(一八六五、第二回長州征伐の年)薩摩から長州への武器転売と長州から薩摩への米の売買という水面下での取引を成功させると一気に両藩の連携を説き始めました。勿論、長州征伐は腰砕けに終わりました。 翌、慶応二年一月下旬、竜馬立会いの下、京都の小松帯刀の私邸に長州藩から桂小五郎、薩摩藩から大久保利通、西郷隆盛らが席に着き、奇跡的な薩長同盟の締結となったのです。 慶応三年十月十三日、徳川家最後の将軍慶喜は大政奉還を表明し、竜馬、帯刀が共に夢みた新生日本へ一歩を踏み出しましたが、その一と月後の十一月十五日夜、竜馬は京都の近江屋の二階で反対派に襲われ暗殺されます。享年三十三歳。また、持病の足痛で歩行も困難となっていた小松帯刀は、明治三年(一八七○)七月、三十六歳の若さで他界しました。ともども日本のため痛恨の極みです。 さて、「えびす」は七福神の一つで生業守護の福神です。長い間の鎖国で行き詰っている我が国の政治、経済の仕組みを改め、船を駆使して海外との交易を図り、国を富ます雄大な構想を練っていた勝海舟、小松帯刀、坂本竜馬こそ「えびす様」の化身だったのです。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)4月20日


~船の魅力その二~


幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)3月20日
~船の魅力その一~

「天の鳥船(あまのとりぶね)」という古代語があります。海を往く船を天翔ける鳥に見立てたのでしょう。船は人間が造った水に浮かぶ道具にすぎませんが、古代人は天まで駆け上りそうな想像に駆られたのでしょう。まさに魅力です。 天正十六(一五八八)年、肥後の国に入国した加藤清正は、関ヶ原合戦(一六〇〇)の後に大型の貿易船を建造しました。この貿易船は長さが二十間(三十六メートル)、横五間(九メートル)、船の中には十六畳もの座敷があり、風呂まで用意してあったといいます。積載量は二百八十トンで豊臣秀吉の日本丸に匹敵する大型船でした。 この時代、ヨーロッパでは重商主義の発展期で、スペインやポルトガルがアジアに勢力を伸ばし、日本では秀吉の天下統一政権ができ、アジアでの外交関係が生じ、いわば明治維新後の黎明期に似た時代でした。
清正は京都の貿易商人を通じ、領内でとれた小麦を外国に売って、生糸や鉛、塩硝を買い、購入価格の倍ほどの値段で国内に売りさばいています。これが文禄、慶長の出陣、熊本城築城などの財源になったのは確かです。 慶長八(一六〇三)年、江戸幕府が開かれると清正は徳川家康から西洋、シャム・コウチ(ベトナム)への朱印状をもらい、自ら貿易に乗り出しました。 しかし、慶長十四(一六〇九)年、徳川幕府は五百石積以上の船は軍艦、荷船を問わず建造、所有を禁じました。もし禁じなければ西国の大名たちが、船を結集して江戸攻撃を企てたり、資金を蓄え軍備拡張に走ったりするのを恐れたのが、禁止した理由のようです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。