えびすの つぶやき

2010年(平成22年)2月20日
~川尻小学校~
その二
川尻鎮撫隊本営址
戦禍から川尻を救った奉行
上田 休(やすみ)

明治十年二月十四日、薩摩の先発隊は「栄名敢えて好まねど 非道を売るは天の道もはやこの上忍ばれず せめては尽くす武士の数万の民を救わんと 京(今日)を限りの死出の旅」 当時薩摩ではやりだした唄を口吟みながら熊本へと軍を進めた。 二月二十日から川尻の町には続々と薩摩兵が集結した。町民は街に満ち溢れた薩摩兵に好意的で何かと便宜を図っていたようだった。二十一日、近見村辺りで熊本鎮台兵との小競り合いが続いているとの噂だったが、二十二日には薩軍の総勢が熊本城攻撃に向かい、川尻は後方基地として若干の兵士が駐留するだけの静けさに返った。 しかし、戦局がはかばかしくないのに苛立つのか、駐留軍は町民を軍夫として駆り出し、弾薬の運搬や兵糧の調達、炊き出し等、過酷な使役を強要した。逆らえば暴力を振るう。労働の代償は払わない。町民は恐怖のどん底に戦いた。頼りの戸長役場の役人たちは雲隠れ、混乱に乗じて各地からやって来るならず者は横行する。家を閉じ近郊へ引っ越す人も増え、残っている人々の不安は募るばかりであった。
途方にくれた町の有志、岡町で米屋を営む米村金八ら十数名は半田村に住む上田休を訪れ、救いを懇願した。
休は熟慮の末、二十六日門弟たちと長子勤を伴い川尻に赴くと、有志らを集めて、暫くの間、鎮撫隊の名で町民の保護に当たることを告げ、同時に休は薩軍駐留隊を訪れ、薩・官軍中立の立場で川尻の鎮撫に就くことの了解を得た。なお、車夫・軍夫の賃金等も定めている。「河陽保護日記」(河陽は川尻町)によると鎮撫の実動は即日、正月十四日(陽暦二月二十六日)からであるが、その條に賊匪侵暴の報あらば、札の辻の版を急打し、各寺是に応じて巨鐘を撃撞し、防火手、是を聞いて会所に集まり・・・・・。つまり消防夫を招集」し、義勇が隊長となって指揮する。自警団の結成で義勇には休の門下生が大部分であった。「人民保護概略」では、薩兵人夫を駆使す、若し是をきかざれば刀(銃)を掲げ是を脅す、市人甚恐懼してこれを告ぐ、休といえど、これに抗する力なければ、相当の代金を取りて是に応ぜせしむ。 また次の項には 夜、官軍の軍艦が二丁港に近付く、鎮撫の士をもって海岸を守って欲しいとの要請が薩軍からあったが、「鎮撫が本意・軍事は中立が原則です」と言ってきっぱりと断った。 休の綿密で迅速な采配により川尻の町はたちまち平穏を取り戻した。その噂は周辺の村々に伝わり、鎮撫依頼が相次いだ。休が各地に出掛ける日も多くなったが続々と鎮撫隊が結成され、休の庇護の下に結束を固め生業に励むことが出来るようになっていった。



川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2010年(平成22年)1月20日
~川尻小学校~
その二
川尻鎮撫隊本営址
戦禍から川尻を救った奉行
上田 休(やすみ)

上田久兵衛は天保元年(一八三○)熊本城下の山崎天神小路(現在の熊本放送本社付近)の上田源十郎(禄高二○○石)の嫡子として生まれた。九歳で藩校、時習館に入り四回も藩主から賞詞を受けるなど英才の誉れが高かった。 元治元年(一八六四)七月、京都留守居役(肥後藩の代表)を命じられ、足高(役職手当)五百石を与えられた。 ペリー来航(一八五三)以来弱体化した幕府は、公武合体策で政権の安泰を図るなか、文久三年(一八六三)、幕府側の薩摩、桑名等の諸藩は尊王派の長州藩と改革派公卿らを京都から追放した。「文久の政変」、「七卿の都落ち」と言われる事件である。その処置に不満をもった長州藩は翌元治元年(一八六四)七月大挙して都に入り、皇居を守護する薩摩、会津、桑名藩と戦端を開き、長州藩方は終に朝敵として追討された。「禁門の変」とか「蛤御門の変」とか呼ばれている。 上田久兵衛が京都留守居役として上洛したのは、その直後の混沌とした八月一日であった。細川藩は幕府と親しく、公武合体派であった。久兵衛は殺伐とした雰囲気のなか、幕府と朝廷の斡旋に奔走した。久兵衛の誠意は双方から認められ、公武一和の実をあげ、細川藩の一家臣でありながら、朝廷・幕府から相談を受けるほどの信頼を得るに至った。 その久兵衛に慶応元年(一八六五)十一月帰国の命が届き、朝廷・幕府要人たちに惜しまれつつ師走の二十日に帰藩すると直ちに川尻町奉行に任じられた。足高は三百石だった。 川尻町奉行は二年餘の期間であったが、その采配に町民は全幅の信頼を抱いた。着任すると「上田自身に不善があったら遠慮なく申し出よ。他人の不善はみだりに口外するな。賞罰に不公平あれば申し出よ。良民に害をなすような悪人は決して許さない。老人、貧しい人々に心配りをしてくれれば、川尻の町はますます繁栄するであろう」と訓示している。 当時、川尻の町は洪水や加勢川堤防の決壊に悩まされていた。現在の石積み堤防が出来たのは泰養寺前下流が明治二十四年、上流は大正三年である。久兵衛は大雨になれば町奉行所(現在の古城神社からその奥一帯)前に高張提灯を立てて町民の通報に備え、自らは川筋の警戒の任に当たるなど率先して町の安全に力を尽くした。また、時折町に出て貧しい身なりの人やお年寄りに出会うと、手ぬぐいを配っていたとの逸話もあるほど、町民を大切にした人で、名奉行として慕われていた。 久兵衛は川尻町最後の奉行を経て慶応四年(明治元年二月)藩の奉行副役になるなど学校党の重鎮として活躍を続けた。明治二年六月、十一代藩主細川韶邦(慶順)は藩知事に任命され、翌年代わって弟の護久が知事になると、藩政は学校党から実学党へと一気に変わっていった。 野に下った久兵衛は名を休と改め、上田家の旧知行地、飽田郡半田村(城山半田町)に塾を開き、軍学や論語に時勢などを加えて教えていた。その噂を聞いた人たちが熊本藩だけでなく、九州各地、遠くは尾張の国からも入塾したと伝えられるほどの盛況であった。




川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)12月20日
~県下に誇れる   川尻小学校~
その一
校訓塔


一昨年、東京の知人から「落合東郭の校訓塔は、まだあるだろうか」との問い合わせに、まさかと驚いた。落合東郭は有名な大正、昭和初期の漢詩人だったからである。
たしか校門を入るとすぐ左手に、蔦かずらに捲き込まれた塔があった。あれだと見当をつけ、山本校長(現、出水小校長)に問い合わせた。手に負えない学校側は川尻青年協議会(福山龍太郎会長)の協力を得て、蔦かずらの除去をなされた。
塔は全容を現した。大きな石柱塔には健康、礼譲、勤労、協和、克己の五つの目標を記し、下段に「進学ニ当リ東郭先生ニ書ヲ乞ヒ校訓塔ヲ建立シ、実践ヲ碑面ニ誓フト共ニ、謝恩ノ記念トナス」昭和十四年建立。校長、教頭、担任四名の氏名と、進学した二十四名の人が母校の優れた訓育に感謝して、記念に校訓塔を寄贈したのである。私はその方々の純粋な謝恩と学校愛に感動したのである。さらに、その心を汲み、郷土の偉人に揮亳を依頼された当時の先生方に心から敬意を抱いた。
落合東郭(東郭は号)は慶応二年(一八六六)託麻郡大江村(現熊本市大江)に生まれた。東京帝国大(現東京大学)卒業後、旧制七高(現鹿児島大学)、旧制五高(現熊本大学)の教授を経て宮内省に入り、大正天皇の侍従(天皇を補佐する側近)を務めた人である。なお、明治天皇の侍講(天皇や皇太子に講義する役)を務め、教育勅語の起草、発布に当たった元田永孚の外孫に当たる方である。
また、この塔の横に標石があり、経線(子午線)は東経一三○度四○分。緯線は北緯三二度四五分と地球上での川尻小の位置が標され、学習環境の整った県下に誇れる小学校である。 ちなみに現在の校訓は現代的な自主・礼儀・奉仕の三つで、児童や保護者、地域の人たちにすぐ目に付くよう、校門正面の二階廊下に大きく掲げられている。




川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)11月20日
~先進的大名 その三~
鍋島直正(閑叟)

幕末、佐賀藩ほど近代化された藩はなかった。軍隊の制度も兵器もほとんど西欧の一流国並みだったという。
鉄砲と言えば火縄銃のことだと思われていた頃、佐賀の銃器工場では雷管式のゲーベル銃を製造していた。後進藩が「装備は洋式銃」と気付き始めた頃、佐賀藩はその銃を他藩に売って、当時世界で最も新鋭な後装式の単発銃を買い入れていた。
鍋島閑叟は「葉隠」という独特の哲学を持った佐賀藩の殿様だが、そういう観念よりむしろ近代工業を信じ、藩国家をヨーロッパの一流国並みの軍事国家に仕立てて行く以外は、何も考えていなかった。
嘉永二年(一八四九)日本最初の製鉄所を造り、洋式銃器の製造を始め、安政年間には造船産業を興して国産の蒸気軍艦製造に乗り出している。これらの産業開発のために藩の秀才を選抜して英語、数学、物理、機械学を学ばせ、極端な勉学を強いた。閑叟は秀才たちに「勉学は合戦と思え」と訓示した。
ところで佐賀藩には地の利があった。代々幕命によって長崎警備を担当していたので長崎からさまざまな国際知識を吸収することが出来たのだった。
筑後川の河口にある三重津の藩海軍所港内には、厳重な入領禁止がしかれている。そこに改良されたアームストロング砲を積んだ英国船が入港した。積荷が降ろされ、大砲倉庫に運び込まれた時、閑叟は藩の西欧機械関係者たち六十騎を連ねて検分に来た。
アームストロングの砲身は鋼鉄だけに、それまでの青銅砲や鋳鉄砲とはまるで違う。閑叟は藩士たちに「これが作れるか」と問うたが、このような強靭な砲身をどのようにして作るのか藩士たちは検当もつかない。
その日から藩士たちの研究が始まった。「これをやらねば、佐賀藩は列強に立ち遅れる」閑叟は超人的な努力を強いた。元治元年(一八六四)の暮れ、精煉できる特殊な炉がないため主任藩士は万策尽きて発狂した。
慶応元年(一八六五)の夏、他の洋学研究者によって炉が完成、翌慶応二年の春、最初の試作品二門が出来た。長崎から駆け付けたイギリス人の兵器商人は、驚いて「英仏以外にこれを造れる国はない」と言ったという。
慶応四年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いで薩長が幕軍を敗走させた後、強い出陣要請を受けていた閑叟は、やっと重い腰を上げた。薩長としては、京を抑えたとはいえ、日本最大の洋式軍隊を持つ肥前佐賀藩を味方に引き入れなければ、徳川勢力を潰すことは難しいからだ。佐賀藩は蒸気軍艦「孟春」に歩兵を乗せ三重津港を出港させた。
江戸開城後、旧幕臣を中心に彰義隊三千人が上野寛永寺に立てこもって抵抗した。旧幕軍はフランス製山砲七門を持ち、上野の山を城塞化していた。これを包囲せん滅するには十倍の兵力が要るのに官軍の兵力は二千人。その上、江戸は灰燼に帰す。佐賀藩は本郷台に陣をとり、アームストロング砲を加賀屋敷に据えた。五月十五日、上野へ進む官軍の兵が見える。彰義隊を市中に散らさないよう一瞬のもとに粉砕せねばと点火した。尖頭弾は吉祥閣に命中し吹っ飛んだ。彰義隊はせん滅し、戦いはうそのように終結したのだ。
会津藩鶴ヶ城の攻防戦においても、アームストロング砲が切り札の役割を果たしたことを思えば、どこかに「葉隠精神」に通じるものを感じる。



川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2009年(平成21年)10月20日
~先進的大名 その二~
*川尻に宿泊した島津斉彬

斉彬の没後、藩政の実権を握ったのは国父久光(斉彬の弟、藩主忠義の父)でした。久光は「藩兵を率いて上京し、勅命を得て幕政改革を断行する」という兄斉彬が果たせなかったシナリオを自ら実行しようとしたのです。 文久二年(一八六二)三月十六日、兵一千人を率いた久光は上洛の途につく。行列には野戦砲四門、小銃百丁を荷造りして、普通の荷物に見せかけて運んでいる。
同行した大久保利通の日記。
注.*印は注釈、( )は現代の時刻
三月二十二日 雨
今日六ツ半(六時)八代 *八代出発 二里
種子山御小休
小川 御休                 一里拾丁
豊福村御立場 *休息          一里拾丁
古保里御立場 *休息          一里
川尻 御泊
右之通諸所御休二而日入前御着
一、今晩五ツ過肥後藩河上彦斎、青木入来。是非逢度と之事候得共供頭へ御逢可被給申入不逢候事。
*右の通り諸所お休みにて日の入る前にお着き。今晩五ツ(八時)過ぎ、肥後藩河上彦斎(げんさい)、青木がきて、是非会いたいとの事であったが、久光は供頭へ会うよう伝え会わなかった。*宿泊所は現在の瑞鷹酒造内で、小路町に本陣跡の標柱がある。その標柱の南東一帯が当時の待賓館で、藩主やその一族の宿泊場所でした。記録はありませんが、一千人もの集団、小路町の混雑ぶりが目に浮かんできます。訪ねた肥後藩の河上彦斎は、通称人切り彦斎と呼ばれる血気盛んな勤王志士で、同志の御船手出身の青木保弘とともに「討幕のため島津久光が出兵する」と勘違いして、同行の懇願に来たのですが、勿論久光が許可する筈はない。供頭は拒絶している。他の藩でも同様なことがあったようです。
三月三日晴
御目覚七ツ半(四時)   *松明を使わないよう朝は薄明かりに出発
川尻 六ツ半(六時)御立 夕方は早く宿に着くのが慣例でした。
一里半余 熊本入口御小休 *迎町の薩摩屋敷
御馬下村 御立場       *角小屋
植木 御休
木之葉御小休
高瀬着七ツ時(四時頃) *宿泊は菊池川の畔にあった熊本藩の御茶屋
*鹿児島を立ってから十六日目、一行は下関で船に乗り海路京都を目指した。久光上洛の報は広く知れ渡り、尊王攘夷を唱える浪士たちは、京都に結集する。彼らも噂で久光は倒幕の挙兵だと思い込んでいたのです。 四月二十三日 薩摩の勤王派は伏見の船宿・寺田屋に集まっていた。久光は最後の説得(解散の命令)に腕利きの八名を送り込んだ。使者の必死の説得、話し合いにも勤王派は応じず、結果は上意討ち。必殺示現流(じげんりゅう)同志で切り合う大惨事となり、命を落としたのは勤王派の有馬新八ら十名だった。 寺田屋騒動は朝廷の久光に対する信用を一気に高め、久光は望み通りの勅使の警護役として、朝廷の権威を背に江戸に赴き幕政改革の要求を貫いた。帰途(文久二年八月二十一日)生麦(現横浜市鶴見区)で大事件を引き起こし、これが翌年七月の薩英戦争の原因となった。しかし、これらの事件も煎じ詰めれば明治維新を早める結果となったのです。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

22009年(平成21年)9月20日


~先進的大名 その一~島津斉彬


黒船に驚いた日本国中が「攘夷」「開国だ」と騒いでいた時、そんな単純な議論に惑わされることなく、藩の近代化、国際化を進め、外国に追いつくことに専心した大名が九州に二人いた。薩摩藩二十八代藩主島津斉彬(なりあきら)と肥前佐賀十代藩主鍋島直正(なおまさ)である。 斉彬は部屋住みの頃から洋学につよい関心があり、欧米並みの軍事力や新しい産業技術を興そうと考えていた。 その当時、長崎から流れ来る情報に、イギリスと隣国清との間で起きたアヘン戦争。それにより受けた不平等条約・重税による民衆の暴動。それら清国での惨状等を聞き、斉彬が強い危機意識を持って取り組んだのが海防問題である。
欧米並みの軍艦、大砲を製造する施設として城内に精錬所、磯御殿に反射炉や溶鉱炉などを持った近代的工場集成館を設計するなど着々と準備を進めた。特にペリー来航後は軍艦には軍艦で対抗するしかないと、幕府に大船建造の解禁願いを出し、蒸気機関を持たない西洋式風帆船を藩の研究者たちに手始めに作らせている。
さらに斉彬は薩摩藩が率先して近代化を成し遂げ日本の政治を改革することを志していたのであろう、洋式紡績工場の開設など明治政府の「殖産興業」の先駆けをなしている。斉彬は倒幕論者ではない。朝廷・幕府や雄藩が力を合わせ(公武合体)新しい国造りを行うことを理想としていたのである。目指すところは日本の近代化であった。 ところで、各国とも船にはその国の旗を揚げている。国際的慣行により掲揚船はその国の領土と同じだと言う。斉彬は、早速我が国の旗印は、日出づる国に相応しい太陽をかたどった日章旗をと幕府に意見書をだして制定させるなど、東洋諸国の二の舞にならぬよう、先進国と対等の交易と外交を強く推し進めたのである。 しかし、安政五年(一八五八)志半ばにして世を去った。鹿児島市の照国(てるくに)神社の祭神、斉彬公は嘉永四年(一八五一)四十三歳で襲封、安政五年の他界まで僅か七年間の治世でしたが、広い視野に立ち、領民の生活向上を図ることに意を注ぎ、なお西郷、大久保といった有能な人材を育成したことなど、藩内だけではなく、日本国に数々の福を与えた大恵比寿様であったのです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。