23号 2011年(平成23年)6月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その二

年貢の上納は毎年十二月二十日限りでした。蔵納の日程はあらかじめ、惣庄屋から庄屋へ通達され、庄屋は各頭(かしら)百姓へ、五人組へと連絡されました。

納入が完了するまで、村には米商人の立ち入り禁止、祭り・祝儀・家の新築などと行ってはならないきまりがありました。

蔵納には農民の一年間の生活の全てがかかっていたのです。村々では、籾摺(もみすり)・俵拵(たわらこしらえ)・作番(さくばん)の雇い入れ・夜業(よなべ)の規則を定めて万全を期します。手永ごとに在御家人の内から任命された抜米(ぬけまい)見しめ役が絶えず見回り、密売買、小作料・借米の取立てなどの取締まりに当たりました。

庄屋は各農家の俵数と納入の日を惣庄屋に報告。拵えた俵には差札(さしふだ)(墨汁で払主の名、住所を書いた長さ十四センチ・幅二センチ位の木札)を俵の中と上皮に付け、払主(ばらいぬし)の内から払頭(がしら)を立て、箕(み)・しょうけ・用心米(ようじんまい)を用意します。

また、払主たちは晴雨に関わらず荷筵(にむしろ)を一枚ずつ持参するのです。

年貢は緑川筋の村々は舟で、他の村々は人馬で川尻御蔵の場内(にわうち)に運び入れ、払頭は村庄屋の作った「送(おくり)」を増横目役(ましよこめやく)に差し出します。

米を受取る側には、根取(取米を定める)、横目(監視)、さし子(米穀審査員)という役人がいて、その下に仲仕(荷物を運ぶ役)二十五人がいました。

常任の仲仕数人は絶えず御蔵の中に居るが、急に全ての仲仕を必要とする時は、法螺貝を鳴らして召集します。杉島・御船手に分散在住中の仲仕は、直ぐ御蔵に駈付けていました。この御蔵仲仕には不文律の株があって、容易にはなれなかったといいます。

さて、増横目役は「送」によって払主、俵数、差札などを調べ、さし子は一俵ごとに竹の当たりさしを入れ、一俵毎に少量の米を取り出して検査を行いました。砕(くだけ)、籾等の交りの有無を調べ、該当する俵には黒印を打って払頭に戻しました。払頭はその俵について、払主に繰直し、または用心米による補充を命じ再検を受けました。

さし子の手を通った俵は秤で重量をはかり、軽俵(かるひょう)(重量不足)は桝目(容量)不足補わせ、通俵(とおりひょう)(合格)としました。

さし子が調べた米は「しょうけ」に入れるが、検査は一日何百回も行うためその米は何石も貯まり、その一割が斤量を受け持つ仲仕頭に与えられていました。役得です。

御蔵の外の広場に山床(やまどこ)という場所があり、御蔵に入りきらない米を露天積みするところです。千俵払いなどという日は大変な混雑でした。米を蔵に入れる。或いは山床に積む。それは仲仕の仕事でした。

山床は湿気を防ぐため上部に一寸(三、〇三センチ)位の石を一尺(十寸)余りの厚さに敷き詰め、その下に一尺ほどの砂、さらにその下に栗石(栗の実位の小石)が一尺ほど敷き詰めてありました。

米俵の山は「四十一俵止め」といって、ピラミッド式に積み重ね、最上部は一俵にするのです。仲仕は「てっぺんからお城が見える」と言って、見物の人たちを羨ましがらせていたといいます。

山間部の人たちは泊まりがけで上納に来ていて、毎年地蔵町(六町内)の定宿に泊まっていました。

なお、検査は年貢米だけでなく、納める俵装も同様です。俵は同一人で拵えたものだけではないため、ハネの出るものもあり、取替えを要求されることもありました。

首尾よく納めが住んで帰る時、道中は「村はこれでお祝いだ」と音頭、旗立てて喜び勇んで帰っていたそうです。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

22号 2011年(平成23年)5月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その一

加藤氏支配時代は郷組制でしたが、細川氏は藩内を六十二の手永組織にして農村を支配しました。手永とは、庄屋が治める村三十カ村位を惣庄屋が支配する仕組みです。

手永の成立は寛永十年(一六三三)ですが、川尻町周辺の村々は四郡十七手永(十八手永の時もあった)に区分けされました。飽田郡の四つの手永。託麻郡の二つの手永。益城郡(上、下)の十の手永。宇土郡の二つの手永です。

さて幕府は幕領からの年貢米を収納し保管する倉庫を元和六年(一六二〇)に江戸浅草を中心に造りました。倉庫は要所の各地にも造られましたが、浅草中心のものが幕府最大の御蔵群です。全国の各藩もこれを契機に御蔵の建築に乗り出します。

熊本藩では三代藩主綱利が延宝八年(一六八〇)二月「家中知行取は従来自分収納なりしを、此時より御蔵米を以て給付と改む」 而して本年より家中三十石手取、江戸御供四十石手取、御合力米・御切米歩一召上げとなる。(官職制度考)という通達がでました。

 

*注解

・通達以前、知行取には農民が直接納入する仕組みだったが、通達後は年貢米を藩に納入させ、藩から知行取に支給する。

・年貢は四公六民で、百石取を例にした給付です。江戸御供の場合は、余計に出費がかさむので四十石を支給する。

・合力米(加俸米)、切米(小禄の家臣に春、夏、冬の三回支給されたる扶持米)の歩(税、手数料)それ相当に差し引く。

延宝八年(一六八〇)五月八日 是月高瀬・川尻・大津に新蔵出来す。

「肥後近世史年表」

川尻には東蔵三棟。中倉三棟。外城蔵三棟ですが、このうち延宝八年にどの蔵ができたのかは不明です。一、二棟ほどの竣工だったと思われます。絵図で御蔵群の場所を推測すると、東蔵は「うなぎの若松屋前の駐車場付近」から「川尻公会堂の東端」位。中蔵は「公会堂西側の駐車場付近」から「JR鹿児島本線」の東側辺り。外城蔵は現在の二棟とその北側に「南向きの一棟」。

この三棟群はほぼ等間隔に並んでいました。何故一箇所にまとめて建てなかったのかという疑問に対し、北野隆熊本大学名誉教授は「米蔵は、火災から守るため離れて蔵群を形成していた」と見解を述べています。

御蔵は一年間の命の綱の米が納入してある大切な蔵ですが、その杞憂が実現したのです。ただし、火災ではなく水害に遭ったのです。

川尻町史によれば天保二年(一八三一)五月、一丈六尺(四メートル八十五センチ)の大洪水、緑川筋、加勢川筋堤防の決壊三十余箇所に及び、殊に川尻外城御蔵に積まれた俵米の浸水一万八百俵に及び、その他町内殆んど浸水し、四日の焼方には延寿寺が倒壊し、寺財什器は勿論、仏体まで流失して了った。本尊不動明王像だけは奉環することができました。

卯年洪水の事

(大田黒家文書)

本町筋にては町中に水四尺余、両田町、小路町にては水六尺になんなんとす。野田村にては二階上へ水上り大慈寺境内にては八尺余の所もあり・・。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

21号 2011年(平成23年)2月20日

 

御蔵前船着場

その三

「川尻町史」末尾の「写真図版補遺」に「三角往還に架せる下町橋」(明治二十七年頃)の写真があります。

明治になると蒸気船の時代を迎え、船は大型化します。川港では水の深さが足りません。時の富岡県令は熊本の貿易振興のために水深があり、地形もよく、人家もないところに、明治十七年から巨額の費用と四年の歳月をかけ七三○メートルの石積埠頭を造りました。二千トン級の船が出入りできる今の三角西港です。

その頃、川尻の港では商い船や遠く乾塩魚を運んできいていた北前船の姿はほとんど見掛けなくなっていましたが、外輪船(九州商船経営の外に輪がある蒸気船)志水丸だけが毎日通って、三角・島原付近との交易は続いていました。また、廻船問屋塩飽屋汲水(通称日の丸)には、大阪方面から来る船舶が時折碇泊していた程度の寂れようでした。

緑川・加勢川・熊本への内陸水路という水の道を巧に利用し、熊本平野の経済、交通の要衝の地として栄えていた川尻は次第に貿易港としての地位を失っていきます。

川の港から海の港への時代が始まったものの、その海の港へ行く道がない。熊本県は川尻町岡町の西側、今のコープ食品の敷地から瑞鷹の東肥蔵、川尻公会堂、下町恵比寿へと道をつくり、そこに橋を架け、杉島、今の鉄道線路の西側へと道をつくり、富合、宇土へと通す計画でした。

ところが川尻停車場(駅)ができ、汽車が川尻へ来たのが明治二十七年八月十七日、宇土駅は二十八年、三角線が明治三十二年十二月の開通でした。

折角作った三角往還橋はちょっとの間だけの使用となりました。その名残りの船着場東端の石柱橋脚。干潮の時に点々と姿を現す橋杙が当時の慌しかった世相を伝えています。

さて、三角西港はオランダ人ムルドルの設計によってできた切り石積みの見事な埠頭です。しかし、その完成には、付近の急峻な岩山を削り、海を埋めるという命がけの難工事でした。その危険な工事に熊本監獄の囚人たちが使役されたのです。工事中に命を落とした囚人六十九人の墓が天草に渡る一号橋手前坂道の左側の奥にあります。この墓は解脱墓と呼ばれています。解脱とは煩悩(ぼんのう)の束縛から解放された人のことで仏となることを指しています。悲しい歴史です。この方々のご冥福を心からお祈りいたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

20号 2010年(平成22年)11月20日

御蔵前船着場

その二  (長さ十四センチ、幅二センチの木簡が建築年代を語る)

平成二十一年五月末、解体修復中の石積み護岸船着場、通称「殿様ガンギ」下流部の根石と根石の間から米の荷札らしい木簡(もっかん)の発見を知りました。水の中だから木簡の腐蝕はありません。木簡の両面に墨書で「一米三斗入」「矢部之内柚口組」とあります。

「熊本県の地名」―平凡社―で調べると口の字は木で、木簡は柚木(ゆのき)村の年貢米荷札と思われました。加藤家支配時代は郷組制で矢部郷(現山都町)柚木組、細川藩時代は手永制なので矢部手永柚木村となります。

米一俵は当時、大俵(だいのひょう)三斗五升。小俵(しょうのひょう)三斗二升。山村からは輸送の関係で三斗俵と区分けされていました。なお、木簡と一緒に出土した中国青磁の破片の年代とも合致しているとのことでした。

さて、加藤家支配の四十四年間のうち益城(矢部)は慶長五(一六○○)年十一月からで、それ以前は小西領でした。とすれば、護岸船着場は加藤清正公治世の二十三年間のうちの築造と考えられますが、加藤家二代忠広(治世二十一年)の工事とは到底考えられません。

清正公の無二の忠臣、飯田覚兵衛は豪勇無双の士であり、土木や築城の名手でしたので工事の殆どの推進役を務めていました。しかし、清正公が亡くなると、忠広を見限り、お暇乞いをして浪人となり、熊本を去っています。

:仮説:

おこがましい考えですが、私なりの仮説を申しますと、築堤工事は当然のことながら完全な水止めで行われています。加藤家時代の船着場築造工事も「流水を塞き止めてから」と考えると、慶長八(一六○三)年、普請奉行の飯田覚兵衛が手代の横手五郎などを指図し、緑川放水路として、川尻への曲流部より小岩瀬までの長さ一五○○メートル、川幅一三○メートルの堀川掘削工事をしてドンド石畳を築きました。その工事に平行して川尻への水を塞き止め、御蔵前船着場を築造したと考察いたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2010年(平成22年)9月20日
御蔵前船着場
その一

平成十六年度から国土交通省緑川下流出張所は、加勢川護岸工事の一環として、損傷の激しい御蔵前船着場の解体修復工事に着手しました。この時「もしかして築造年の手がかりが出れば」と、私なりに期待を膨らましました。
歴史に記録ほど大切なものはありません。全長百五十メートル、十四段からなる埠頭がいつ構築されたのか分からない。江戸時代中頃の絵図にやっと現在の様子が描かれている程度で、多くの疑問を抱きながらもその絵図で納得するより他はありませんでした。
工事は私の予想以上に周到な計画で、船着場前三十メートルほどの所を土砂で堰止め、船着場側の水を完全に無くしてから始まりました。
まずトレンチ調査です。トレンチとは、工事場所全体を掘り返さずに、ある部分を帯状(幅、約三メートル)に掘り下げて、その付近の状況全体を推察する部分調査です。
この調査で下から十三段目までの石と十四段目(最上段)の石の質が全く異なっていました。十四段目は明らかに近頃積み増したものでした。
十三段目までの石段は金峰山周辺で採れる安山岩※で、専門家の話によりますと、島崎周辺の島崎石は青、白、赤とさまざまな色調をしており、松尾周辺の松尾石はアカイシと言われる赤系統の石、また高野辺田(独鈷山)は白系統ということです。それを聞いて、その目で見ると確かに金峰山周辺から運んできた石材であると判りました。
さて、第一回トレンチ調査の跡を見て驚きました。私は思わず「版築※だ」と心の中で叫びました。搗き固められた粘土の段々が姿を現したのです。素人の私には、そのまま石を載せても良いような損耗のかけらを感じさせないものでした。 その粘土層を保護する内部は木杭を打ち、土留柵を設け、粗朶を敷き、胴木(太い木材、丸太)を並べる堅牢な仕組みで、先人たちの優れた工法にはただただ驚くばかりでした。

※安山岩とは、南アメリカ大陸のアンデス山中の火山岩に付けられた名に由来する命名です。
※版築とは、粘土を杵でつき固める方法ですが、御蔵前の船着場は「版築ではない」ということでした。



川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

えびすの つぶやき

2010年(平成22年)8月5日
開懐世利(かわせり)


開懐世利とは? 川尻は、明の時代に出版された「図書編」の中に「開懐世利」の名稱で紹介されています。 これは中国の明の地理学者、鄭若曽が日本の永禄四(一五六一)年に出版した「日本図纂」に開懐世利(川尻)・高瀬・八代・宇土・天草などと記されているからです。 少し堅苦しいですが辛抱して読んで下さい。鄭若曽は「朝鮮通信使」の一員として来日しました。朝鮮通信使とは日本と朝鮮の友好使節団で、通常、日本の将軍が替わる度に来日しています。一行は、総勢三百人から五百人にものぼり、中には学者・画家・医師などもいました。 この通信使は、記録として日本図纂を書いています。予め日本の有名な国と港の場所を知っておくため、略図を書き、記入していたのです。
当時、朝鮮との正式貿易を行うには朝鮮国から図書を授かることが必要でした(授図書の制)。図書とは貿易を希望する人の名前を刻んだ銅製印のこと、つまり朝鮮国との「貿易許可申請印」です。 貿易を行う際には、対馬の宗氏から朝鮮国への書簡(間違いないという証明書)を書いてもらい、その書簡に授かった印を捺したものを持参することになっていたのです。
朝鮮や中国との貿易は利益が大きいので、多くの西日本の国々が、その利権を得ようと競い合っていました。また、正式な貿易希望国と、海賊行為をはたらいている倭寇とを区別するためにも、こんな面倒な決まりを作ったのでしょう。
河尻氏もこの貿易に参加していたことにほぼ間違いないと思いますが、今残っている記録では、文明二(一四七〇)年、菊池為邦(菊池氏二十代)が図書を授けられています。申請要項は、肥後国の守護で、二千の兵を擁していると記してあります。 河尻実昭は、菊池兼朝(菊池氏十八代)に亡ぼされますので、この時はすでに河尻氏は滅亡していました。 ちなみに八代では、当時の城主名和氏が文明九(一四七七)年から明応二(一四九二)まで毎年のように朝鮮へ船を出しています。 次の城主相良氏は天文八(一五三九)年、渡唐船市木丸を建造して、翌年琉球と通商しています。また、弘治元(一五五五)年四月八日に、八代徳淵港を出発した渡唐船十八艘が嵐で吹散らされた惨状の記録も残っています。 さて、高瀬津の積み出し荷は、主に武具や銀細工で、朝鮮からの輸入品は、繭糸や麻などでした。貿易港に指定された朝鮮の都市、三浦地域(斉浦・釜山浦・塩浦)に行く高瀬氏(菊池氏の一族)の船数は年間五十隻と定められていましたが、十五世紀後半には四百隻ほどにも膨れ上がり、貿易に従事する日本人居留民と現地の人々との紛争が起きます。困った朝鮮では、居留日本人の活動を抑制する政策をとったため、日朝戦が起きました。結果は居留民の敗北となり日朝貿易は途絶しました。しかし、貿易で得る利益が忘れられず、二年後には再開されますが、日本人の居留は禁止されたままでした。 その後、菊池氏の滅亡により、高瀬氏も衰退し、さらに豊臣秀吉の天下統一により西国領主たちの日朝貿易・日唐貿易は終わりました。 古代から近世までの長い期間、肥後屈指の水の道の起点として活躍し、また近隣諸国には貿易港、開懐世利の津と呼ばれ親しまれた川尻です。この呼び名も遺産として大切にしたいものです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。