25号 2011年(平成23年)8月20日

 

川尻公会堂創立八十周年によせて

その二    吉村太八、彦太郎

   明治十(一八七七)年二月、西南の役が起こり、四月川尻にも戦火が迫りました。川尻にあった三軒の酒屋は逸早く避難しましたが、吉村太八家では女、子供だけを避難させて主と店員・蔵子の殆どが店に残って営業を続けました。

 四月十二日未明、杉合村廻江の緑川岸から官軍の砲撃五十発を受けましたが、幸い町には火災が起きませんでした。しかし、一発が太八家の酒蔵に命中、屋根を貫通して土間に大穴が空きました。恐怖に戦き、その日は全員避難しましたが、翌日には再び店に帰り営業を続けます。

 西南の役後、熊本市内の酒屋は殆ど兵火に焼き払われており、川尻でただ一軒営業を続けた太八の店は面白いほど繁盛しました。しかし、その頃の熊本県の清酒醸造技術は劣等で、旨い酒は筑後、灘、伏見から移入されていました。

 太八は何とかして良い酒の醸造をしたいと念じていた折、明治二十(一八八七)年、つてを得て兵庫県出身の丹波杜氏を招き、灘式の清酒醸造を試みました。県下では初めてのことで、まさに太八の大英断でした。

 同時に十九歳になった彦太郎には店務一般、十七歳の藤吉には販売、十五歳の和七には醸造を分担させて仕事の習熟と効率化を図りました。当時の酒造家では、醸造に関しては杜氏まかせで、醸造に関する知識を殆ど持ちませんでした。太八は将来の酒造家は、それではやって行けないことを予見していたのでした。

 明治二十三(一八九十)年、杜氏の失敗で酒の大部分が腐敗、酢に変成しなければならない始末となりました。これを機に丹波杜氏との契約を切り、翌年から従来の杜氏、古賀寿八と和七の二人に醸造を担当させました。

 江戸時代細川藩は赤酒を「御国酒」とし、それ以外の酒の製造を禁止、他藩でつくられる清酒は『旅酒』と呼ばれ細川藩への流入は規制されていました。このため、明治に入り清酒の製造が許可されても熊本県内では品質の良い清酒はつくれませんでした。この頃、熊本税務監督局に「酒の神様」と言われる野白金一氏が着任します。これを機に太八、彦太郎親子は県下の蔵元に呼びかけ、上方に劣らない醸造技術の習得を目指した研究所の設立を呼びかけました。

 明治四十二(一九○九)年、蔵元たちの強い要請で研究所の技術顧問に就任した野白は、県内の清酒の品質向上に心血を注ぎ、昭和初期には、全国の品評会で一位から三位までを熊本県産酒が独占するほどの銘酒醸造をなしし遂げました。

 ところで、彦太郎は明治三十八(一八九五)年に川尻町下町の廻船問屋塩飽屋からアサを妻として迎えます。

                                                          西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

24号 2011年(平成23年)7月20日

 

川尻公会堂創立八十周年によせて

その一   吉村太八(瑞鷹創業者)

太八は天保九(一八三八)年、川尻中町浅木屋要八の次男として生まれ、嘉永六(一八五三)年、十六歳のとき三郎兵衛の養子として大嶋屋分家へ入家します。

大嶋屋三郎兵衛は異風人でした。家は売薬を業としていましたが商売を好まず、俳句を作り、書物を読むことを楽しみにしていました。俳人仲間ではその中心として信頼を受けていたが生計は苦しく、本家大嶋屋からの援助で暮らしている状態でした。従って、養家での太八の仕事はありませんでした。このため、太八は町で産する桶類を担いで熊本方面へ行商するのが日課でした。また、家が売薬を取り扱っている関係から、年に一度、富山から入れ薬商がやって来ると,太八はその供をして薬籠を担い、山村を廻る賃仕事もしていました。

安政四(一八五七)年、三郎兵衛は隠居して家督を太八に譲りました。太八は養家の家業を引き継ぎましたが、その時の商品棚卸総額は僅か六百四十文だったといいます。当時うどん一杯が十六文でした。太八は「懸命に働きさえすれば、必ず神が降りてくる」という実家の教えを胸に、大嶋屋本家からの援助を辞退して、商売に勤しみました。

当初は、養父から引き継いだ売薬に加え箒、草履等の小雑貨を商い、次いで米や雑穀の搗き売りも始めます。これが割と利があり、更に自宅で麹の製造を手掛けました。

その当時、多くの家で自家用の酒を造っており、また酒屋も多量の麹を必要としていたので、秋から冬場にかけて麹はよく売れた。川尻が肥後五ケ町の一つで、商業上の制約をほとんど受けない地域だったことが幸いしたのです。

太八が文久元(一八六一)年に結婚した頃、客が店に置いていない薬を求めると、夜分店を閉めてから熊本まで往復三里の道をその薬の仕入れに出かける程の商売熱心さで、次第に人々の信用を高めていきました。

太八は養父三郎兵衛が近眼に加え老齢のため書物を読めなくなると、終日の労働で疲れ切っていても、毎晩軍記物語を呼んで聞かせるなどの孝養を尽くしました。そのことが町奉行の耳に入り、太八は親孝行と家業精励により鳥目一貫文の褒賞を頂いたのです。鳥目とは、丸い穴あき銭で、一貫文が一000枚で一分、四分が一両です。

慶応三(一八六七)年十月、太八は住宅裏の小屋で少量の濁酒を造りはじめます。酒造業の始まりです。

明治二(一八六九)年、太八は酒造蔵一棟を建設します。太八が初めて作った建築物でした。そして、その年の二月三日、長男彦太郎が誕生。その後二年おきに次男藤吉、三男和七が産声を上げました。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

23号 2011年(平成23年)6月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その二

年貢の上納は毎年十二月二十日限りでした。蔵納の日程はあらかじめ、惣庄屋から庄屋へ通達され、庄屋は各頭(かしら)百姓へ、五人組へと連絡されました。

納入が完了するまで、村には米商人の立ち入り禁止、祭り・祝儀・家の新築などと行ってはならないきまりがありました。

蔵納には農民の一年間の生活の全てがかかっていたのです。村々では、籾摺(もみすり)・俵拵(たわらこしらえ)・作番(さくばん)の雇い入れ・夜業(よなべ)の規則を定めて万全を期します。手永ごとに在御家人の内から任命された抜米(ぬけまい)見しめ役が絶えず見回り、密売買、小作料・借米の取立てなどの取締まりに当たりました。

庄屋は各農家の俵数と納入の日を惣庄屋に報告。拵えた俵には差札(さしふだ)(墨汁で払主の名、住所を書いた長さ十四センチ・幅二センチ位の木札)を俵の中と上皮に付け、払主(ばらいぬし)の内から払頭(がしら)を立て、箕(み)・しょうけ・用心米(ようじんまい)を用意します。

また、払主たちは晴雨に関わらず荷筵(にむしろ)を一枚ずつ持参するのです。

年貢は緑川筋の村々は舟で、他の村々は人馬で川尻御蔵の場内(にわうち)に運び入れ、払頭は村庄屋の作った「送(おくり)」を増横目役(ましよこめやく)に差し出します。

米を受取る側には、根取(取米を定める)、横目(監視)、さし子(米穀審査員)という役人がいて、その下に仲仕(荷物を運ぶ役)二十五人がいました。

常任の仲仕数人は絶えず御蔵の中に居るが、急に全ての仲仕を必要とする時は、法螺貝を鳴らして召集します。杉島・御船手に分散在住中の仲仕は、直ぐ御蔵に駈付けていました。この御蔵仲仕には不文律の株があって、容易にはなれなかったといいます。

さて、増横目役は「送」によって払主、俵数、差札などを調べ、さし子は一俵ごとに竹の当たりさしを入れ、一俵毎に少量の米を取り出して検査を行いました。砕(くだけ)、籾等の交りの有無を調べ、該当する俵には黒印を打って払頭に戻しました。払頭はその俵について、払主に繰直し、または用心米による補充を命じ再検を受けました。

さし子の手を通った俵は秤で重量をはかり、軽俵(かるひょう)(重量不足)は桝目(容量)不足補わせ、通俵(とおりひょう)(合格)としました。

さし子が調べた米は「しょうけ」に入れるが、検査は一日何百回も行うためその米は何石も貯まり、その一割が斤量を受け持つ仲仕頭に与えられていました。役得です。

御蔵の外の広場に山床(やまどこ)という場所があり、御蔵に入りきらない米を露天積みするところです。千俵払いなどという日は大変な混雑でした。米を蔵に入れる。或いは山床に積む。それは仲仕の仕事でした。

山床は湿気を防ぐため上部に一寸(三、〇三センチ)位の石を一尺(十寸)余りの厚さに敷き詰め、その下に一尺ほどの砂、さらにその下に栗石(栗の実位の小石)が一尺ほど敷き詰めてありました。

米俵の山は「四十一俵止め」といって、ピラミッド式に積み重ね、最上部は一俵にするのです。仲仕は「てっぺんからお城が見える」と言って、見物の人たちを羨ましがらせていたといいます。

山間部の人たちは泊まりがけで上納に来ていて、毎年地蔵町(六町内)の定宿に泊まっていました。

なお、検査は年貢米だけでなく、納める俵装も同様です。俵は同一人で拵えたものだけではないため、ハネの出るものもあり、取替えを要求されることもありました。

首尾よく納めが住んで帰る時、道中は「村はこれでお祝いだ」と音頭、旗立てて喜び勇んで帰っていたそうです。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

22号 2011年(平成23年)5月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その一

加藤氏支配時代は郷組制でしたが、細川氏は藩内を六十二の手永組織にして農村を支配しました。手永とは、庄屋が治める村三十カ村位を惣庄屋が支配する仕組みです。

手永の成立は寛永十年(一六三三)ですが、川尻町周辺の村々は四郡十七手永(十八手永の時もあった)に区分けされました。飽田郡の四つの手永。託麻郡の二つの手永。益城郡(上、下)の十の手永。宇土郡の二つの手永です。

さて幕府は幕領からの年貢米を収納し保管する倉庫を元和六年(一六二〇)に江戸浅草を中心に造りました。倉庫は要所の各地にも造られましたが、浅草中心のものが幕府最大の御蔵群です。全国の各藩もこれを契機に御蔵の建築に乗り出します。

熊本藩では三代藩主綱利が延宝八年(一六八〇)二月「家中知行取は従来自分収納なりしを、此時より御蔵米を以て給付と改む」 而して本年より家中三十石手取、江戸御供四十石手取、御合力米・御切米歩一召上げとなる。(官職制度考)という通達がでました。

 

*注解

・通達以前、知行取には農民が直接納入する仕組みだったが、通達後は年貢米を藩に納入させ、藩から知行取に支給する。

・年貢は四公六民で、百石取を例にした給付です。江戸御供の場合は、余計に出費がかさむので四十石を支給する。

・合力米(加俸米)、切米(小禄の家臣に春、夏、冬の三回支給されたる扶持米)の歩(税、手数料)それ相当に差し引く。

延宝八年(一六八〇)五月八日 是月高瀬・川尻・大津に新蔵出来す。

「肥後近世史年表」

川尻には東蔵三棟。中倉三棟。外城蔵三棟ですが、このうち延宝八年にどの蔵ができたのかは不明です。一、二棟ほどの竣工だったと思われます。絵図で御蔵群の場所を推測すると、東蔵は「うなぎの若松屋前の駐車場付近」から「川尻公会堂の東端」位。中蔵は「公会堂西側の駐車場付近」から「JR鹿児島本線」の東側辺り。外城蔵は現在の二棟とその北側に「南向きの一棟」。

この三棟群はほぼ等間隔に並んでいました。何故一箇所にまとめて建てなかったのかという疑問に対し、北野隆熊本大学名誉教授は「米蔵は、火災から守るため離れて蔵群を形成していた」と見解を述べています。

御蔵は一年間の命の綱の米が納入してある大切な蔵ですが、その杞憂が実現したのです。ただし、火災ではなく水害に遭ったのです。

川尻町史によれば天保二年(一八三一)五月、一丈六尺(四メートル八十五センチ)の大洪水、緑川筋、加勢川筋堤防の決壊三十余箇所に及び、殊に川尻外城御蔵に積まれた俵米の浸水一万八百俵に及び、その他町内殆んど浸水し、四日の焼方には延寿寺が倒壊し、寺財什器は勿論、仏体まで流失して了った。本尊不動明王像だけは奉環することができました。

卯年洪水の事

(大田黒家文書)

本町筋にては町中に水四尺余、両田町、小路町にては水六尺になんなんとす。野田村にては二階上へ水上り大慈寺境内にては八尺余の所もあり・・。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

21号 2011年(平成23年)2月20日

 

御蔵前船着場

その三

「川尻町史」末尾の「写真図版補遺」に「三角往還に架せる下町橋」(明治二十七年頃)の写真があります。

明治になると蒸気船の時代を迎え、船は大型化します。川港では水の深さが足りません。時の富岡県令は熊本の貿易振興のために水深があり、地形もよく、人家もないところに、明治十七年から巨額の費用と四年の歳月をかけ七三○メートルの石積埠頭を造りました。二千トン級の船が出入りできる今の三角西港です。

その頃、川尻の港では商い船や遠く乾塩魚を運んできいていた北前船の姿はほとんど見掛けなくなっていましたが、外輪船(九州商船経営の外に輪がある蒸気船)志水丸だけが毎日通って、三角・島原付近との交易は続いていました。また、廻船問屋塩飽屋汲水(通称日の丸)には、大阪方面から来る船舶が時折碇泊していた程度の寂れようでした。

緑川・加勢川・熊本への内陸水路という水の道を巧に利用し、熊本平野の経済、交通の要衝の地として栄えていた川尻は次第に貿易港としての地位を失っていきます。

川の港から海の港への時代が始まったものの、その海の港へ行く道がない。熊本県は川尻町岡町の西側、今のコープ食品の敷地から瑞鷹の東肥蔵、川尻公会堂、下町恵比寿へと道をつくり、そこに橋を架け、杉島、今の鉄道線路の西側へと道をつくり、富合、宇土へと通す計画でした。

ところが川尻停車場(駅)ができ、汽車が川尻へ来たのが明治二十七年八月十七日、宇土駅は二十八年、三角線が明治三十二年十二月の開通でした。

折角作った三角往還橋はちょっとの間だけの使用となりました。その名残りの船着場東端の石柱橋脚。干潮の時に点々と姿を現す橋杙が当時の慌しかった世相を伝えています。

さて、三角西港はオランダ人ムルドルの設計によってできた切り石積みの見事な埠頭です。しかし、その完成には、付近の急峻な岩山を削り、海を埋めるという命がけの難工事でした。その危険な工事に熊本監獄の囚人たちが使役されたのです。工事中に命を落とした囚人六十九人の墓が天草に渡る一号橋手前坂道の左側の奥にあります。この墓は解脱墓と呼ばれています。解脱とは煩悩(ぼんのう)の束縛から解放された人のことで仏となることを指しています。悲しい歴史です。この方々のご冥福を心からお祈りいたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

20号 2010年(平成22年)11月20日

御蔵前船着場

その二  (長さ十四センチ、幅二センチの木簡が建築年代を語る)

平成二十一年五月末、解体修復中の石積み護岸船着場、通称「殿様ガンギ」下流部の根石と根石の間から米の荷札らしい木簡(もっかん)の発見を知りました。水の中だから木簡の腐蝕はありません。木簡の両面に墨書で「一米三斗入」「矢部之内柚口組」とあります。

「熊本県の地名」―平凡社―で調べると口の字は木で、木簡は柚木(ゆのき)村の年貢米荷札と思われました。加藤家支配時代は郷組制で矢部郷(現山都町)柚木組、細川藩時代は手永制なので矢部手永柚木村となります。

米一俵は当時、大俵(だいのひょう)三斗五升。小俵(しょうのひょう)三斗二升。山村からは輸送の関係で三斗俵と区分けされていました。なお、木簡と一緒に出土した中国青磁の破片の年代とも合致しているとのことでした。

さて、加藤家支配の四十四年間のうち益城(矢部)は慶長五(一六○○)年十一月からで、それ以前は小西領でした。とすれば、護岸船着場は加藤清正公治世の二十三年間のうちの築造と考えられますが、加藤家二代忠広(治世二十一年)の工事とは到底考えられません。

清正公の無二の忠臣、飯田覚兵衛は豪勇無双の士であり、土木や築城の名手でしたので工事の殆どの推進役を務めていました。しかし、清正公が亡くなると、忠広を見限り、お暇乞いをして浪人となり、熊本を去っています。

:仮説:

おこがましい考えですが、私なりの仮説を申しますと、築堤工事は当然のことながら完全な水止めで行われています。加藤家時代の船着場築造工事も「流水を塞き止めてから」と考えると、慶長八(一六○三)年、普請奉行の飯田覚兵衛が手代の横手五郎などを指図し、緑川放水路として、川尻への曲流部より小岩瀬までの長さ一五○○メートル、川幅一三○メートルの堀川掘削工事をしてドンド石畳を築きました。その工事に平行して川尻への水を塞き止め、御蔵前船着場を築造したと考察いたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。