35号 2013年(平成25年)1月20日

忘れ去られる地名 その一

昨年末の文化の会会議で、議題の審議も終わり雑談になった時、ある委員から「町名改正で○丁目○○番地となった。味気ない呼称で、その場所も覚えにくい。土地の親しみも薄れた」とのぼやきが上がった。多くの人々に使われてきた地名が今、消えつつある。その残念さが口をついたのでしょう。
地名とは、その土地の歴史を物語るものです。地名の研究をしたこともない私が書くのは、おこがましいことですが、例えば加勢川の「かせ」とは昔、舟をつなぎとめる杭を指していました。それで舟運で栄えていた全国各地の川にこの地名が多く残っています。
また、ここ川尻は古くは「河尻」と表記されていましたが、加藤清正の緑川改修によって、暴れ川が穏やかな川になったので、川尻と表記されるようになったと考えられます。そのように地名はその土地の歴史を話しかけてくれる妙辞(すぐれた言葉)です。
ところで明冶四十四(一九一一)年三月、第八代川尻町長の栗崎達也氏が退任の時の引継ぎ書の中に次のことが記されていました。
雑 事
一、川尻町ノ初メハ本町、見世町、新町ナリ
一、外城ノ城ト御茶城ノ間ノ堀ヲ内堀ト云フ
一、外城村ト云フ所ニ町出来タルヲ外城町ナリ
一、拾ヶ所ハ役所鍛冶方、材木方、米銭方、薪方色々ノ役所拾ヶ所アル所ナリ
一、下町ハ本町ノ下手ニ町出来下町ト名付、此所ハ河尻家時代ハ知行取屋敷ナリ
一、本町ヲ中町ト云フハ下町出来テ後ナリ
一、小路町ハ河尻家ノ家中コフジ丁故小路町ト名付ケリ
一、岡町ハ若宮社ニ近ツキ鶴ヶ岡ヲトリテ岡町ト名付ケリ
一、正中島ビハ島ト云フ所琵琶島ニ正中年中、町出来年号ヲ名付ケリ
一、正中島町弁天社河尻三郎心願ニヨリ湊繁昌ノ為、鎌倉江ノ島弁天ノ分霊を勧請セラルト云フ
一、河尻城ヨリ亥子(イ・ネ)ノ隅ニ当ルヲ以テ乾角(イネズミ)ト名付ケリ
*明冶二十二(一八八九)年四月一日 市町村制実施
初代川尻町長 小山豊熊(明冶二十二年五月~明冶二十五年五月)


十六代町長  岡 次七(昭和七年十月~昭和十五年十一月)
*昭和十五(一九四○)年十二月一日 熊本市と合併
                                                                                                                西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

34号 2012年(平成24年)12月20日

 

「御船手渡し場跡」

国史跡指定    その二

 

川尻の館に直冬を迎え入れた幸俊は、直ちに対立関係にあった阿蘇社に、所領寄進をちらつかせながら尊氏・直義の息災と直冬の目的成就の願を立てます。

その願文でも幸俊は肥後守を称しています。これは勿論直冬から授けられたものです。もっとも直冬は「幕府の命を受けて下向してきた」と言いふらし、近隣の武士たちを味方にするため、手形を乱発しています。河尻氏と連合関係にあった詫摩宗直も筑後守護職に補せられていました。

この一年半前、亡き後醍醐天皇の分身として懐良(かねよし)親王が肥後に入り、征西府が菊池に誕生しています。幸俊の一連の動きはライバル菊池氏への対抗意識があったのでしょう。それ故北朝方にも、南朝方にも付いていない武士を集結して九州での第三勢力を目論んでいたのです。

幸俊の思惑通り、中央の貴種直冬の名声と幸俊の交易による資金で大勢力に成長の兆しが見え始めた頃、筑前に根を張る少弐頼尚(しょうによりひさ)の迎えを受けて直冬は川尻の地を去ります。頼尚は直冬の父直義派の武将だったのです。更に頼尚は直冬を娘婿にして勢力の拡大を図ったのです。幸俊等も直冬側に加わり、直冬方は九州を制圧したかのような勢いになっていきました。

観応二(一三五一)年二月、中央では尊氏と直義が和睦すると直冬は九州探題に任命され、公的に九州の統括として大宰府を掌握しました。だが立場を失った前九州探題一色範氏は南朝方に走り、新たな対立が生まれるのです。

翌年二月都で直義が毒殺されると事態は急変し、直冬の勢威は一気に衰え、一色軍に追われ中国へと去ります。

一方、少弐勢は南朝方の菊池を攻めるが肥後国で菊池武光に破れ、筑前へと逃げ帰ります。河尻幸利はその時剃髪して菊池氏に帰順しました。

延文四(一三五九)年八月、筑後川の戦(福岡県小郡市)は小弐頼尚と菊池武光の雌雄を決する戦いで、頼尚は敗退します。しかし、勝った側の征西将軍宮懐良親王も重傷を負い、菊池武光が追撃を断念した程の接戦でした。

この戦で南朝方は最盛期を迎えるのでしたが、菊池に帰順している河尻幸利は、そんな菊池武光におもねることもなく、曖昧模糊とした態度を保ち続け川尻周辺の地を護っていました。

老いた幸俊は潮が満ちてくると館(城)近くの川港(現在の御船手渡し場跡)に佇み、都方面の交易から還ってくる家臣たちから、初代将軍尊氏・二代将軍義詮(よしあきら)親子と足利直義の猶子(兄尊氏からの貰い子)直冬との骨肉相食む壮絶な戦い、世に言う「「観応の擾乱(じょうらん)」の噂話に一喜一憂する毎日でした。

西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

33号 2012年(平成24年)11月20日

 

「御船手渡し場跡」

国史跡指定    その一

 

時代区分に鎌倉時代から室町時代にかけての狭間に南北朝時代があります。 

この時代から室町時代にかけての最大の軍記物が「太平記」で、全四十巻もある膨大な読み物です。そのごく一部を紹介します。 

足利利直(ただふゆ)という人物は足利尊氏の長男として生まれましたが、母の身分が低かったため仏門に入られようとするところを尊氏の弟、直義(ただよし)が憐れみ、自分の養子として育てます。しかし、尊氏と直義が仲たがいを始めたことから直冬は実父尊氏を敵に回すことになります。いわゆる観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)です。

「中国探題」として備後(現在の広島県)の鞆津(とものつ)にいた直冬は、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の手先に襲撃されます。押し寄せて来た軍勢は二百余騎。弓矢で必死に防戦を続ける直冬のところに、すっと船を寄せて直冬を招き入れたのが肥後国河尻庄の七代城主河尻幸俊(なるとし)でした。その船に乗って直冬は肥後国に落ちて行きました。

「・・・志ある者は小舟に乗って追いつき奉る。・・・潮の鳴戸にさして行く船は、片帆は雲に遡り、煙水眼に茫々たり、萬里漂白の愁、一葉扁舟の憂思、涙馴衣袖朽ちて涙忘るり・・・」と「太平記」は思い入れたっぷりに物語っています。貞和五(1349)年九月のことです。

文中、「潮の鳴戸にさして行く船は」とあります。鳴門は四国徳島県北部で、鞆津から西行する場合、潮の流れが速い来島海峡を避けて、伊予の港を経由して行くルートが古代から有力な航路として存在していたようです。太平記には記述はありませんが、四国を経由して無事川尻の港に着いたことは間違いありません。その川尻の港こそ「御船手渡し場跡」と考えられるのです。

それにしても幸俊はなぜ鞆津に居合わせたのでしょう。当時の全国な見地からすれば、肥後国の一国人(鎌倉時代の地頭・領主)に過ぎない河尻幸俊が足利直冬を招いたのです。苦戦を強いられていたとはいえ見も知らぬ人物の船に直冬が乗ったとは考えられず、以前両者はなんらかの接触なり接点があったと思われます。

知人から頂いた資料によれば貞和二(1346)年三月二十四日、藤原氏女(女は娘のこと)と「川尻肥後守」との間で、京都高辻高倉東南の地が現銭二十貫文で三ヵ年間の貸借契約がなされています。川尻肥後守とは幸俊と考えて間違いありませんが「肥後守」補任の資料は見当たりません。貸借の地所から北に上った高倉小路に直義の館があり、さらにすぐ北の二条高倉小路には尊氏の館があったのです。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

32号 2012年(平成24年)9月20日

伝統産業の町川尻の諸識

染 物   その二

藍甕(あいがめ)

藍甕は、高さ一メートル三十センチ、胴回り二メートル七十センチ、口径八十センチ程の陶器です。この藍甕の口部を十センチ程地上に出して、本体を庭の地中に三つ並びに埋め込みます。

そして「藍を出す」と言って、藍甕と藍甕の中間、しかも地中に埋め込んだ火(ひ)室(むろ)で鋸屑を燃やします。藍甕は一年を通じて温度が一定していなければなりません。この温度を保つことを「守りする」という程ゆるがせにはできない大切なことです。その温度は門外不出とされ、その店主の「秘伝」でした。

藍甕は従業員一人に三本、予備の一本を加えて四本を受け持つのが一般的でした。従って大店で五十本、小さい店で二十本は備えていたようです。

藍染めといえば単純な絞り染めと思われがちですが、絞り染めには沢山の技法があり、特に図柄(模様)作りは苦労の多いものでした。

なお、染色業の最盛期は大正末から昭和中頃までで、特に五月五日の端午の節句前には、出世魚の鯉にあやかっての真鯉、緋鯉、子鯉の注文が相次ぎ、武者絵の染め抜き、名前旗等の作成と併せて日夜仕事に追われたといいます。

肥後絣(ひごがすり)

肥後絣はかって農村、漁村で普段着として着用されていた藍染めの木綿織物です。岡町の宮崎染織では大正十(一九二一)年十月、刈草町に「綿布工場」を設立、豊田織機を三十台購入して操業を始め、製品を藍の香りを生かした「肥後絣」と名付けました。

木綿を生産しない川尻で肥後絣を織ることにしたのは、水量豊かな川と長い伝統と優れた染織技術、加えて町周辺農家の人手でした。しかし、生活文化の向上に伴って絣の需要は落ち、昭和五十七(一九八二)年には姿を消してしまいました。貴重な動力織機、力(りき)織機は今はない。残念なことです。

川尻音頭に肥後かすりが謡われていますので紹介します。

三、さあさあ あなたも 川尻音頭ヤレソレソレ

川尻名物、酒 桶 刃物

あの娘かわいい 肥後かすり

川は加勢川みどり川  みどり川

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

31号 2012年(平成24年)8月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

染 物    その一

 

江戸時代からの染物は川尻町が中心でした。城下町熊本を流れる白川の水は阿蘇の火山灰を含み、染まり具合が良くない。従って、坪井川、井芹川のほとりに、僅かの染物店があった程度でした。

川尻町は水郷の町で、しかも町中を流れる河水は染色に適した良質の水です。これらの川筋では染物業が盛んで、明治・大正期の記録では九軒の店が繁盛を続けていました。川尻町の七軒と八幡町、元三町の各一軒です。いずれも大店です。

染料は紅花・藍で、隣町の飽田町史によると近世末期、飽田郡・詫摩郡を中心に特用作物として染料の紅花・藍を栽培しています。これらを川尻の染色業者が主に使用していたと思われます。

紅花

キク科の一年草で、背丈は約一メートル。葉は広披針形で硬く縁にトゲがある。夏、黄赤色の花を付け、その花から製した紅を染料などに用いる。

肥後ではいつ頃から栽培されていたのかは不明ですが、寛永十六(一六三九)年頃の「肥後国郷帳」に[紅]の記載があるのを見ると、加藤氏の時代にはすでに栽培されていたとも考えられます。

天保十三(一八四二)年の「諸御郡惣産物調帳」によると、飽田郡・詫摩郡の生産量が断然多い。しかし明治八(一八七五)年の「飽田郡村誌」によると紅花の栽培は移入紅に圧倒されて激減しています。

藍はタデ科の植物で古く飛鳥時代に中国から伝わり、江戸時代には広く一般に栽培されるようになった染料です。藍は一年草で、毎年種を採り、播いて育て続けねばならないのです。秋に七、八十センチメートルほどの背丈に成長して小花を付けて実を結びます。染料の藍はこの藍の葉から作ります。藍は青色でもないのに、藍の葉を発酵させた液で染めると美しい青色に染まります。

前記「諸御郡惣産物調帳」によると飽田・詫摩両郡の藍の生産量は、肥後藩の生産高の約九十七パーセントを占めています。しかし、明治十三(一八八○)年の「熊本県概要」によると、天保十三(一八四二)年の生産量の約三十五パーセントにまで減少しています。

この衰退の原因は、地藍が浅葱(あさぎ)色しか出せないという難点があり、艶のある美しい濃紺を出す阿波(徳島)産の良質の「藍玉」にその座を奪われたと思われます。さらに、明治中期以降は安価なインド藍、続いてドイツの人造藍の輸入により県内の藍栽培は消えてしまいました。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

30号 2012年(平成24年)6月20日

 

伝統産業の町川尻の諸識

川尻桶    その二

材料

樽の材料は板目で、桶の材料は柾目である。昔は吉無田官山の八十年物の杉古木を使っていたが、材料の枯渇で和歌山産の「さわら」、木曽産の桧(ひのき)を購入した時もあった。しかし、それは一時的で矢部、人吉方面の製材所からの取り寄せが殆どとなった。材料の杉は八十年物、さわらは百年物でないと良い製品にはならないと言われていた。

 

製品

明治時代まで総ての桶類は木製であったが大正時代に入ると、普段取っ手の付いた木製の手桶で水汲みをしていたのが、ブリキや合成樹脂の軽いバケツに代わり始めたように木製品の需要は徐々に減り始めた。さらに昭和二十年の終戦を境に、急速に新素材を使った各種製品に移り始めた。

川尻で製作していた木製の桶やたごの用具を観てみると、海苔桶・肥たご・半切り(牛馬のはみ桶)・米櫃・飯櫃・湯たご(茶会用)・すし桶・湯桶・手桶・漬物桶など各種ある。たらいは「ちょうずだらい」(顔を洗う小さい物)・「下だらい」(おしめ洗い)・「大だらい」(洗濯、行水用)などの三種。現在はすし桶・湯桶・酒樽程度と減っている。

 

製作道具

昔は外ゼン(外側から削る)・内ゼン(内側から削る)・入れぎわ・前ぎわ(外側をえぐる)・だんぎり鋸(丸切り)・板削り(材料を割る)・正直(しょうじき)鉋(がんな)(正確に接着させる)・万力など沢山の道具を使っていた。現在は内鉋・外鉋・底回し鉋・金敷・錐などが主な道具である。

 

仕事納め

十二月三十一日、仕事場を片付け掃除をする。その後三方に白紙を敷き、二段重ねのお鏡餅にウラジロ・ツルノハを挟み、その上にダイダイ(橙)を載せる。前に串柿、おひねり(米)を置き、積み重ねた道具箱にお供えして「一年間ありがとうございました」とお礼をいい、来る年の福徳を祈る。

恵比寿さんを祀る神棚にも同じである。なお、元旦から三日まではお雑煮

も上げる。                 仕事初め

元旦の夜から二日の朝までに、研ぎ水入れの桶・お櫃などを親方の指示で作る。お櫃は普通一日に十個ほど作るが、この朝は六個で終わる。全員が作り終われば酒肴が出て、十日までの正月休みとなる。

 

恵比寿祭り

桶屋祭りとしては特別にはないが、桶屋は福の神、商売の神の「エベッサン」を信仰している。エベッサン祭りの十一月二十日は休業で、床の間に鳥帽子をかぶって鯛を釣り上げている恵比寿様の掛軸を掛け、鯛、お神酒、ミカン、柿などを供える。職人、徒弟には酒肴を馳走し、取引先の商店主を招待していた。

 

木製品の将来

昭和二十年代末より石油化学製品に押され、木製品は次第に寂れて行った。今は、徒弟はおろか製品の注文すら殆どない現状である。日用品の桶から楕円形や箱型の桧風呂製作を始めた家もあったが、強化プラッスチック浴槽の出現で注文はほとんどないという。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。