38号 2013年(平成25年)6月20日

忘れ去られる地名    その四

 西村 「肥後国誌」では託麻郡本庄手永に属し、若宮大明神社が記してあります。「国郡一統志」には若宮 観音が見えます。明冶七年(1874)合併して元三村となりました。

 平野  南北朝期に書かれたと推定される詫摩文書に「一所、平野の屋敷事」と見え、詫摩氏が当地内に屋敷を持っていたことが分かります。

 近世の「肥後国誌」では本庄手永に属し、天神社があります。「国郡一統志」では「天神二所」と記されています。明冶七年合併して元三村となりました。

 岡町  若宮神宮に近いため、鶴が岡八幡宮の岡をとって岡町。人々の敬神の念が篤いことの表れが、岡町の町名となったのでしょう。

 椎田村 慶長十二年(1607)の検地帳に志井田村と記され、肥後国誌には椎田、北・中・南椎田と記してあります。

 八幡町 八幡信仰は大分県の宇佐八幡宮に代表される信仰で、平安朝初期の貞観二年(860)平安京鎮護として石清水に勧請された後、清和源氏一族の氏神として、武神的性格を強め武士の守り神として全国各地に勧請されました。河尻神宮の主神が鶴岡八幡宮であり、その縁で八幡の地名が付いたと考えられます。 

 明冶七年(1874)、椎田村、北・中・南椎田が合併して八幡村になり、昭和十五年熊本市と合併して八幡(やはた)町となりました。

 

*地名の原点は小字(こあざ)です。参考までに椎田の下げ名(小字)を記してみます。

 高 田  タカタ     田潟、潟の意?

 北堀川  キタホリカワ  北方の用水溝

 村 東  ムラヒガシ   集落の東

 北村脇  キタムラワキ  分かれた、分村

 壱町畑  イッチョバタ  壱町もある広い耕作地

 東 原  ヒガシバル   集落の東、ハルは開くの意

 楠 原  クスブン    砂地の海、崩壊地形を示す。分は区分

 北ノ前  キタノマエ   前面。特に寺社、仏閣の前方。

 鳥居崎  トリイザキ   神社、鳥居のある所

 小 碇  コイカリ    田に引く水路の水門。堰(せき)

 八反田  ハッタンダ   一枚で八反もある広い田圃

 六反田  ロクタンダ   JR無田川鉄橋付近。広い田圃の意。

 城ノ後  ジョウノシロ  河尻城のうしろ

 椎田屋敷 シイダヤシキ  江戸時代の庄屋(しょうや)の屋敷跡  

 乾角屋敷 イネズミヤシキ 亥(イ)は北西、子(ネ)は北

 

地名は古来から、その場所を自他に示すために使用し続けてたものです。その由緒ある地名も消滅の危機が訪れています。私たちは改めて地名の持つ意味と、その重みを再検討する必要があると思います。地名を残すためには、日常生活の中で「その地名を多く使い続けること」も一つではないでしょうか。

                                                                                                                                    西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

37号 2013年(平成25年)4月20日

 忘れ去られる地名    その三

 「川尻町の初めは本町、見世町、新町なり」、「下町は本町の下手に町出来下町と名付、此処は河尻家時代は知行取屋敷なり」、「本町を中町と言ふは下町出来て後なり」(雑事)、川尻の集落は四つ角付近から形成されたようで、この辺りが町の中心地だったのでしょう。

 *一般的な呼称として上町、中町、下町などの名称が付くのは川の上流から下流に向かって、その順序に並ぶのが原則です。

 正中島町とは正中年間(1324~1326)に琵琶島に町が出来、その時の年号をとって正中島町と名付けられました。正中とは鎌倉時代末期の後醍醐天皇の年号で、当時この島は船が発着する川尻港の中心地だったと思われます。

 それ故に河尻城主の河尻三郎は港繁栄のために七福神の一つ、江の島弁財天の分霊を、この地に勧請したのでしょう。川尻の町では「弁天さんを祀ってあるから正中島の女性は皆美人に生まれる」との言い伝えがあります。

 新町の本立寺(ほんりゅうじ)境内に三十番神が祀ってあります。横町は鍛冶屋町です。火災予防に島原の護国寺(日蓮宗)から「蘇生三十番神」を勧請したのです

堂内須弥壇には八神が四段、合わせて三十二神が祀られており、順番に毎日一神が町を護られます。三十一日のある月は三十一神と三十二神が交互に町を護られます。お陰で勧請以来、町が火災に遭うことはなかったようです。

 ところで、番神の中に僧形が二、三見受けられます。「神仏習合」です。つまり、神と仏とは本質において一つであるという神仏一体化をみることが出来、日本の神々の奥深さ、仏教とのかかわりの深さが感じられます。

 横町は中心地から横に伸びた町の意と思われます。

 田町の「タ」は方向、場所を示すもので、水田の意味ではなく、ハタ(端)、ヘタ(辺)などのタです。カナタ(彼方)、コナタ(此方)など地名では場所を示します。つまり中心地の端、辺を指す地名でしょう。

 大渡町。川尻と富合町杉島を結ぶ薩摩街道の舟渡し場を大渡といい、白川、緑川、加勢川が大慈寺の少し上で合流して流れる九州一の難所でした。従って溺死者も多く人々は難儀していました。建久二(1276)年、法皇禅師寒巖(かんがん)()(いん)は四方に告げて川尻大渡に長橋を作らしむ(川尻町史)

 弘安元(1278)年、長さ約百五十メートル、幅約五メートルの大橋が完成、大渡橋と名付けられ、この集落を大渡町と呼ぶようになります。

 野田町。野は田畑、野田とは起伏のある平坦地の地名です。慶長の検地帳に上田畑が多いとあります。しかし野田には荒野とか湿地(ヌタと同系)の意もあるので、大雨で泥田のようにぬかるむ所もあったのでしょう。野田には藤原時代、長徳寺(学承院)がありました。世安町の無漏寺、十禅寺町の山王社(日吉神社)とともに、古代宗教文化の先進地でした。大切な地名としては談議所跡(仏教の意義を説く所)、中世末期の万善寺跡(フルデラ)等があります。

 なお、下げ名に土()井内(いのうち)がありますが、土井内とは一般に土塁のある名主の邸を指しますが、ドエ(崩壊)もそう呼びますので、緑川の浸食地形かも知れません。

 元三町は明治七年、西村・平野・方指崎が合併して出来た町です。方指崎とは国志草稿に「牓示崎(ぼうじさき)」、慶長八年の検地帳に「牓示崎村」と記してあります。これは四至牓示(ししぼうじ)で荘園の領域境界を示す四隅の標識のことです。つまり、方指崎は貴族の荘園で牓示崎が方指崎へと変化したものです。なお、この地域は加藤清正支配下の時代にも太閤(豊臣秀吉)の蔵入地であったようです。

                                                                                                                           西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

36号 2013年(平成25年)2月20日

 

忘れ去られる地名    その二

東西五百メートル、南北二百五十メートルと推定される河尻城は鎌倉初期の館城(やかたじろ)です。城館要所の出入口は櫓門(やぐらもん)を備え、回りは塀や柵で守られた程度でした。後で堀や土塁を巡らしたものへ発展していきます。しかし、河尻城は水城で、周囲を川で防いでいたようです。

外城町とは鎌倉から室町時代にかけて、河尻城のあったその外側の町で、城内にに住む人々や近くの集落の人達が買物に集まる商店街の町だったようです。

海辺、山手の集落から舟で魚や野菜を運び、室町時代には多分定めた日に「市」がたっていたと思われます。また、川尻町史にある江戸時代の絵図に変体仮名で「ととう」(渡唐)の文字が三ヶ所記してあります。これは中国の交易船が来航した時の通訳とか、交易品の売買に携わる唐人の住居でした。

十六番神は加勢川遊歩道堤防に鎮座して、益本家が祀っています。祭神は十六個の石です。そのいわれ(由緒)を記しますと、河尻城主は妻室が浮気をしていると嫉妬してその相手をこっそりと殺害します。数年後この事実を知った妻女は、こんな情けない夫に仕えも益なしと館を飛び出し、川辺に走り来ると両袂に石を入れ身投げします。日頃から妻女を尊敬する下女たち十五人も袂に石を入れて「奥方様」と叫びながら次々と後を追い河に飛び込みました。

これを哀れんだ里人は、袂にあった十六個の石を川辺に、後の十六個を河尻神宮境内に祀り供養を続けています。

船頭町 加藤忠広(清正の嫡子)が熊本藩主の時、河尻城は藩命により潰され、城跡は空地となります。その地を細川藩は水軍(海軍)、つまり船頭(船長)加子衆(水夫)の居住地にしました。この町の下げ名(小字)に十か所(じっかせい)があります。十か所とは町奉行所直属の拾(十)の役所があったところです。(第三十五号、雑事参照)

なお、外城町野田本家前の北への道路は明治の頃までサギが遊んでいたという内堀跡で無田川との交差点辺りは、河尻城より亥(北西)子(北)の隅に当たるので乾角(イネズミ)の地名が付きました。また、外城郵便局横の道を少し北に進み、東に曲がると無田川から入り込んだ堀があり、藩の役所材木方のあったところで「オザイカタ」と呼ばれています。その他、地蔵町など歴史の一杯詰まった全国的にもまれな誇り高い地名です。

小路町はしゅうじ町と呼びますが、小路とは狭い道の意ではなく、大路の枝道を指すのが一般的です。

「小路町は河尻家コフジ丁故小路町と名付た」

*雑事

二つの解釈があります。

一、コフ(古府、または国府の転)路。古代小路(コウジ)は、国府路の意で

江戸時代から小路と変化したようで、河尻城へ行く道。

二、古語のコフ(雇夫)路。つまり、河尻城で働く人々の住む町。

このどちらかでしょう。 

                                                         西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

35号 2013年(平成25年)1月20日

忘れ去られる地名 その一

昨年末の文化の会会議で、議題の審議も終わり雑談になった時、ある委員から「町名改正で○丁目○○番地となった。味気ない呼称で、その場所も覚えにくい。土地の親しみも薄れた」とのぼやきが上がった。多くの人々に使われてきた地名が今、消えつつある。その残念さが口をついたのでしょう。
地名とは、その土地の歴史を物語るものです。地名の研究をしたこともない私が書くのは、おこがましいことですが、例えば加勢川の「かせ」とは昔、舟をつなぎとめる杭を指していました。それで舟運で栄えていた全国各地の川にこの地名が多く残っています。
また、ここ川尻は古くは「河尻」と表記されていましたが、加藤清正の緑川改修によって、暴れ川が穏やかな川になったので、川尻と表記されるようになったと考えられます。そのように地名はその土地の歴史を話しかけてくれる妙辞(すぐれた言葉)です。
ところで明冶四十四(一九一一)年三月、第八代川尻町長の栗崎達也氏が退任の時の引継ぎ書の中に次のことが記されていました。
雑 事
一、川尻町ノ初メハ本町、見世町、新町ナリ
一、外城ノ城ト御茶城ノ間ノ堀ヲ内堀ト云フ
一、外城村ト云フ所ニ町出来タルヲ外城町ナリ
一、拾ヶ所ハ役所鍛冶方、材木方、米銭方、薪方色々ノ役所拾ヶ所アル所ナリ
一、下町ハ本町ノ下手ニ町出来下町ト名付、此所ハ河尻家時代ハ知行取屋敷ナリ
一、本町ヲ中町ト云フハ下町出来テ後ナリ
一、小路町ハ河尻家ノ家中コフジ丁故小路町ト名付ケリ
一、岡町ハ若宮社ニ近ツキ鶴ヶ岡ヲトリテ岡町ト名付ケリ
一、正中島ビハ島ト云フ所琵琶島ニ正中年中、町出来年号ヲ名付ケリ
一、正中島町弁天社河尻三郎心願ニヨリ湊繁昌ノ為、鎌倉江ノ島弁天ノ分霊を勧請セラルト云フ
一、河尻城ヨリ亥子(イ・ネ)ノ隅ニ当ルヲ以テ乾角(イネズミ)ト名付ケリ
*明冶二十二(一八八九)年四月一日 市町村制実施
初代川尻町長 小山豊熊(明冶二十二年五月~明冶二十五年五月)


十六代町長  岡 次七(昭和七年十月~昭和十五年十一月)
*昭和十五(一九四○)年十二月一日 熊本市と合併
                                                                                                                西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

34号 2012年(平成24年)12月20日

 

「御船手渡し場跡」

国史跡指定    その二

 

川尻の館に直冬を迎え入れた幸俊は、直ちに対立関係にあった阿蘇社に、所領寄進をちらつかせながら尊氏・直義の息災と直冬の目的成就の願を立てます。

その願文でも幸俊は肥後守を称しています。これは勿論直冬から授けられたものです。もっとも直冬は「幕府の命を受けて下向してきた」と言いふらし、近隣の武士たちを味方にするため、手形を乱発しています。河尻氏と連合関係にあった詫摩宗直も筑後守護職に補せられていました。

この一年半前、亡き後醍醐天皇の分身として懐良(かねよし)親王が肥後に入り、征西府が菊池に誕生しています。幸俊の一連の動きはライバル菊池氏への対抗意識があったのでしょう。それ故北朝方にも、南朝方にも付いていない武士を集結して九州での第三勢力を目論んでいたのです。

幸俊の思惑通り、中央の貴種直冬の名声と幸俊の交易による資金で大勢力に成長の兆しが見え始めた頃、筑前に根を張る少弐頼尚(しょうによりひさ)の迎えを受けて直冬は川尻の地を去ります。頼尚は直冬の父直義派の武将だったのです。更に頼尚は直冬を娘婿にして勢力の拡大を図ったのです。幸俊等も直冬側に加わり、直冬方は九州を制圧したかのような勢いになっていきました。

観応二(一三五一)年二月、中央では尊氏と直義が和睦すると直冬は九州探題に任命され、公的に九州の統括として大宰府を掌握しました。だが立場を失った前九州探題一色範氏は南朝方に走り、新たな対立が生まれるのです。

翌年二月都で直義が毒殺されると事態は急変し、直冬の勢威は一気に衰え、一色軍に追われ中国へと去ります。

一方、少弐勢は南朝方の菊池を攻めるが肥後国で菊池武光に破れ、筑前へと逃げ帰ります。河尻幸利はその時剃髪して菊池氏に帰順しました。

延文四(一三五九)年八月、筑後川の戦(福岡県小郡市)は小弐頼尚と菊池武光の雌雄を決する戦いで、頼尚は敗退します。しかし、勝った側の征西将軍宮懐良親王も重傷を負い、菊池武光が追撃を断念した程の接戦でした。

この戦で南朝方は最盛期を迎えるのでしたが、菊池に帰順している河尻幸利は、そんな菊池武光におもねることもなく、曖昧模糊とした態度を保ち続け川尻周辺の地を護っていました。

老いた幸俊は潮が満ちてくると館(城)近くの川港(現在の御船手渡し場跡)に佇み、都方面の交易から還ってくる家臣たちから、初代将軍尊氏・二代将軍義詮(よしあきら)親子と足利直義の猶子(兄尊氏からの貰い子)直冬との骨肉相食む壮絶な戦い、世に言う「「観応の擾乱(じょうらん)」の噂話に一喜一憂する毎日でした。

西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

33号 2012年(平成24年)11月20日

 

「御船手渡し場跡」

国史跡指定    その一

 

時代区分に鎌倉時代から室町時代にかけての狭間に南北朝時代があります。 

この時代から室町時代にかけての最大の軍記物が「太平記」で、全四十巻もある膨大な読み物です。そのごく一部を紹介します。 

足利利直(ただふゆ)という人物は足利尊氏の長男として生まれましたが、母の身分が低かったため仏門に入られようとするところを尊氏の弟、直義(ただよし)が憐れみ、自分の養子として育てます。しかし、尊氏と直義が仲たがいを始めたことから直冬は実父尊氏を敵に回すことになります。いわゆる観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)です。

「中国探題」として備後(現在の広島県)の鞆津(とものつ)にいた直冬は、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の手先に襲撃されます。押し寄せて来た軍勢は二百余騎。弓矢で必死に防戦を続ける直冬のところに、すっと船を寄せて直冬を招き入れたのが肥後国河尻庄の七代城主河尻幸俊(なるとし)でした。その船に乗って直冬は肥後国に落ちて行きました。

「・・・志ある者は小舟に乗って追いつき奉る。・・・潮の鳴戸にさして行く船は、片帆は雲に遡り、煙水眼に茫々たり、萬里漂白の愁、一葉扁舟の憂思、涙馴衣袖朽ちて涙忘るり・・・」と「太平記」は思い入れたっぷりに物語っています。貞和五(1349)年九月のことです。

文中、「潮の鳴戸にさして行く船は」とあります。鳴門は四国徳島県北部で、鞆津から西行する場合、潮の流れが速い来島海峡を避けて、伊予の港を経由して行くルートが古代から有力な航路として存在していたようです。太平記には記述はありませんが、四国を経由して無事川尻の港に着いたことは間違いありません。その川尻の港こそ「御船手渡し場跡」と考えられるのです。

それにしても幸俊はなぜ鞆津に居合わせたのでしょう。当時の全国な見地からすれば、肥後国の一国人(鎌倉時代の地頭・領主)に過ぎない河尻幸俊が足利直冬を招いたのです。苦戦を強いられていたとはいえ見も知らぬ人物の船に直冬が乗ったとは考えられず、以前両者はなんらかの接触なり接点があったと思われます。

知人から頂いた資料によれば貞和二(1346)年三月二十四日、藤原氏女(女は娘のこと)と「川尻肥後守」との間で、京都高辻高倉東南の地が現銭二十貫文で三ヵ年間の貸借契約がなされています。川尻肥後守とは幸俊と考えて間違いありませんが「肥後守」補任の資料は見当たりません。貸借の地所から北に上った高倉小路に直義の館があり、さらにすぐ北の二条高倉小路には尊氏の館があったのです。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。