43号 2014年(平成26年)6月20日

(いかだ)流し その一

川尻町発展の基は筏だった、と言っても過言ではありません。その筏関連の文献を町史や資料から拾ってみますと

 川尻町史 御作事所

 「官職制度考」には船の作事、米倉、所々官署の造作を掌る。と定められています。これらは川尻御大工棟梁の竹内家当主が、代々大工を指図して御用を勤めていました。御用材は砥用、甲佐御山から伐り出され、筏で緑川を下り運んでいたのです。

肥後国誌 

桑津留村の小村として「舟場村」が記載されている。文化十(一八一三)年の「緑川上流通漕碑」によりますと「文化四年から同九年にかけて河浚をした結果、桑津留から豊内(甲佐町)までの通漕が可能になった」と記しています。

砥用町史

「明治四十(一九〇七)年頃には、柏川奥の国有林の直径六十センチメートル位の大きな木材で柏川をせき止め、水が深くなったところで放水して木材を流し、明無瀬の緑川本流で筏を組んで流していたが、だんだん水が涸れて、大正の初めには宮内(甲佐町)の淀淵までバラで流し、淀淵で筏を組んでいた」とあります。

以上の資料から年々緑川の水量が減っていったのが分かります。

甲佐町宮内の西原地区は、矢部・砥用・甲佐の材木集積地でした。ここには四十人ほどの筏師がいて川尻まで材木を運ぶのを生業(なりわい)としていました。

川尻町には五、六軒の山師を職業とする家がありました。山師とは山林の買い付けを仕事とする人達です。その人達は矢部町の内大臣山や砥用、甲佐などの山々を歩き回り、気に入った山林を買い付けました。

買った杉、桧の立木は(きこり)が伐採して六メートルの長さに切り揃えます。立木は直径四、五十センチメートルの五十年ものがほとんどで、その材木は一年間ほどその山に置き、水分を抜きます。翌年、樵は山師から指示された日までに牛に材木を曳かせ舟場へ運びました(馬では材木に傷がつき易い)。

筏師の段取り

一日目「藤カズラタチ」と言って、グループ全員が(なた)(かま)を携え、幾キロも歩いて山奥に分け入り、藤カズラ取りです。採取したカズラは夕方、山ボコに差して担って帰ります。

二日目 集めてある材木を八本横並びに藤カズラを廻して結び付ける。これを棚といい、その幅は三メートルにもなり、この棚を一メートルほどの間隔で、四組をカズラで繋ぐ。つまり、四輌編成の電車のように縦に繋ぐのです。

間をあけるのは、川の流れが蛇行したり、曲がったりしているので筏全体を曲がり易くするためで、これを一挺といい、二人一組で一挺の筏を作るのです。

三日目 握り飯を風呂敷に包んで腰に結わえ、地下タビ、キャハン姿の筏師達は朝三時に川辺に集まり一挺の筏に二人ずつ乗ります。普通七挺編成で、総勢十四人です。用意してある長さ四メートルほどのマタケの(ミザオ)を各挺に五、六本積み込むと出発です。

西 輝喜

 

42号 2014年(平成26年)4月20日

草津餅の由来

川尻町史に「島津家止宿の折は必ず名産草津餅を白木の箱に入れて献上した」とある。

 世が戦国時代から江戸時代に変わると泰平の世になり、交通網も次第に整い、街道筋には人が集まる宿場町・港町等が形成された。昔の旅は、今の旅行のように快適なものではなかった。江戸初期までは、宿というのは寝泊りをするだけ。食事は自炊、部屋は殆ど相部屋で夜具は汚れて、押入れもなく、宿屋は薪を提供をするだけ。従って宿泊料は木賃として取っていたので木賃宿と呼ばれていた。後では食事を宿が出すようになったが、おいしいものを食べさせるという接待ではなく、その土地に産するものばかりだった。しかし、旅する楽しみは食べ物。世の中が進むと加工したもの、菓子や団子といった名産が各地に出来あがってきた。

川尻名産の草津餅は「草津よいとこ一度はおいでドッコイショ」の群馬県北西部の草津温泉ではなく滋賀県南部、琵琶湖東岸の草津がこの餅の誕生地です。

ここは古代から交通の要所で、近世には東海道と中山道の分岐点として宿場町で栄え賑わった所です。水津に対する陸津が草津になったとあり、地名は陸上交通で種々(くさぐさ)の物資が集散する津(港)の意味と思われます。

近江は京に近く、昔から商業活動が盛んな土地柄、近江商人として全国的に活動していました。薬草の栽培も古来より盛んで、お灸のもぐさは殆ど近江の産、製薬・売薬も富山と並んで有名な所です。泰平の世、旅人は増え「旅の必需品は薬」、需要は増すばかりです。

さて草津屋の先祖がこの地に薬種屋、餅屋を開いたのも、港町・宿場町として繁盛していた川尻が最も適当だと判断したからでしょう。いつの頃から草津餅が売られたのかは不明ですが、岡町の偏照寺に草津屋のお墓が幾つかあり、古い墓石に享保十三年(一七二八)草津屋八良兵衛と記されたのもある。享保年間は江戸中期、将軍吉宗の時代、その前から草津餅が売られていた事は確かです。

当時、川尻の本場は本町・店町・下町・外城町。中心地より街道筋が旅人も気軽に立ち寄れ、茶をすすりながら餅を賞味したものと思われます。

草津餅は珍しい位小さいのが名物で、一口で食べられるのが特徴。側の餅を薄くして、中にアンコを入れるのは特技を要した。小さくて側が薄ければ、どっかりすることもなく、一つ一つと摘まんでいるうちに、思わず沢山食べてしまうのが草津餅で、人々の出入りが多い港町の名物として大繁盛だったそうです。また、細川藩家中の武士は、馬の遠乗りで川尻に来ると、必ず草津屋へ立寄っていたと伝えられています。

明治に入ると旅人は船から汽車へと変わった。草津屋本家は家運を他に求めて餅屋をたたみ長崎へ転出することになった。しかし、餅を求める人々が多かったので、近くの村上家が餅屋を代々受継ぎ、分家が草津屋薬局を経営して菩提を守っている。

西 輝喜

 

 

41号 2014年(平成26年)2月20日
砂利(じゃっ)取(と)り舟 その二
大渡橋下は「百間端」とも呼ばれ恐れられていました。流れが速い上、沢山の橋杙が立っている。舳先がこの橋杙に当たれば、舟はその衝撃で沈没するどころか、投げ出される船頭の命さえ危ない。
五、六艘連なって通るが、後ろの熟練者から「おさえろ」「ひかえろ」等と注意が飛ぶ。おさえろとは舳先を右へ、ひかえろとは左へという指示である。誰れしも命がけで櫓を操る。何十年船頭をやっていても、「この難所を過ぎるとほっとしていた」という。御蔵前の船着場で砂利を降ろすとすぐに引き返す。
普通午前中二回、午後一回の砂利掬いであったが、後半は腰が痛く、腕もしびれる重労働でした。
服装は筒袖の着物に素足のため、冬は背中に綿入れ半てん等を着込んでいたが、腰まで水につかるので、寒さで手足はかじかみ紫色になっていた。昭和の初め頃から作業服が店頭に出回ると仕事もし易くなり、昭和十六年ダバが発売されると、幾分かは寒さから逃れることが出来たそうです。
昭和十八年末、加勢川は現在の川筋となり大渡橋下を通る河川は廃止された。従って、マイタ、マイタの施設も不要となり撤去されました。 
それ以降、舟は大禅寺河原に係留して置き丹生宮で採った砂利は大禅寺河原に積み上げ販売されていましたが、採取の機械化や需要の低下とともに昭和四十年代、砂利取り舟はその姿を消してしまいました。
なお、業者が機械掘りに使用した巨大な用具も採算が合わないのか、中牟田閘門の少し上流に放置されたまま無残な姿をさらしています。
[引っ込み線]
三ヶ所九棟あった川尻米蔵(御蔵)も明治になると、外城蔵二棟を残して取り壊されます。この二棟は後に米券倉庫として活用されました。 
明治二十七(一八九四)年八月十七日、川尻停車場(駅)に汽車が来ました。当時は九州鉄道会社という民営の会社でした。
この頃二棟の米蔵に収められた米の輸送は船、荷馬車、貨物自動車等と多様でしたが、遠方への輸送は船に代わって鉄道貨物輸送となったのです。
停車場から鉄道線路の東側(現在は道路) に沿って船着場の道路まで線路が敷かれました。米券倉庫(御蔵)に収納されていた米は係の厳しい検査を受けると、仲仕が担いで鉄橋の東側に待つ貨車へ積み込む、積荷を満載した貨車は重い。仲仕や屈強な若者たちが肩に厚い布を当て、貨車を押して無田川に架かる低い鉄橋を越え、現在の川尻小学校樹木園を通り、裏無田川の鉄橋を渡り停車場まで運んでいました。

引っ込み線はやがて米だけではなく、砂・砂利の輸送にも利用されるようになると、緑川の砂利取りは一躍盛んとなりました。船着場の岸に積まれた砂や砂利は「ジャリ」と呼ばれていた人夫達が浅い丸ショーケや畚を天秤棒で担ぎ、無蓋車に積んでいました。
ジャリは一回毎に「札」を貰い、最後にその札を監督に差し出し、賃金を受け取っていました。
この貨車積みも昭和十三年まででした。
西 輝喜

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

40号 2013年(平成25年)10月20日

砂利(じゃっ)()り舟 その一

私がこの川尻町に居を移した昭和二十九年、五・六艘の砂利取り舟が連らなって棹を巧みに操りながら緑川を遡上していた姿に接した時、その牧歌的な風景に感動を覚えました。

当時、砂利は道路工事や鉄道関係からの需要が多く、川尻に荷揚げする舟は百艘を数えたそうです。

まず、日本の道路行政を考察してみると、江戸時代まで人馬による徒歩交通で車輌の普及は制限されていたようでした。つまり江戸時代の土木行政の重点は治水灌漑に置かれ、軍事的考慮からか、道路の新設とか改修にはいろいろ制限がなされていたのです。

文久三年(一八六三)、十四代将軍(いえ)(もち)が上洛時、箱根山中のぬかるみに丸石を入れ道路の補修をして通行した記録がある程度の道路行政でした。

明治維新前後から道路が砕石道、砂利道になっていくと駕籠にかわって人力車、荷馬車、客馬車、自転車、自動車等が相次いで登場するなど一気に交通形態が変わり、砂利、バラス、砂の需要が高まるばかりでした。

ちなみに川尻町の重要幹線、薩摩街道は幅員僅か五メートル余。しかも屈曲急な部分もあって危険な常態でしたので、昭和九年十一月に新町橋まで幅員十三メートルの直線砂利道に改修されました。

限りなく需要が多くなる砂利の採取は、河岸を護るため「河川法」で厳しい制限がありました。川尻町付近では、城南町の仲間(なかま)河原(丹生宮(にゅうのみや))だけが採取許可区域でした。

川尻近くで砂利が多いところは採取禁止区域の河川敷(高水敷)近くです。その河川敷には養蚕農家が桑を植えていたので、この近くの砂利を掬い揚げると桑畑が崩壊する恐れがあり、農家との対立が絶えませんでした。農家からの連絡があると、県の河川課とか警察からの巡視があっていたようです。

砂利取りをする舟は、小回りのきく底が浅い五枚舟の川平田で「砂利取り舟」と呼ばれていました。この舟は江戸時代、農村からの買い付け、日用雑貨の集落地への輸送、御」船・甲佐地方への米搗き等に利用されていましたが、明治期の経済流通の著しい変革により、殆どが砂利取り用に転用したそうです。

夏も冬も夜明けとともに家を出て舟係留地に向かい、待ち合わせの人達と丹生宮の砂利取り場へ出発する。

各々適当な場所に陣取ると川底の砂利をジャッタブという塵取り型の容器で掬い揚げる。舟一杯に積み込むと下流の川尻へ櫓を漕いで下る。(上流へ向かう時は棹)高村の千本杭の難所を通過し一キロメートル程下ると加勢川との合流点、うっ出し(通称マイタ、マイタ)に差し掛かる。

加勢川の水位は緑川より四尺(一メートル二十センチ)ほど高い。ここより緑川と加勢川とは並行して流れているが、水位の落差が二尺もあるため石の堤防で仕切られていた。従って、激流のうっ出しを二尺も遡って加勢川に水路を変えることは到底出来ない。そこで川尻や江津方向に行く舟のため、軸を手動で回し舟を引き上げる施設とそれを操作する人が待機していた。

舟から「マイタ、マイタ」と叫ぶと、番人が八番線の針金を三本より合わせたロープの引っ掛けを回してくる。船頭がそれを舳先に付けると番人は軸を回して加勢川へ引き上げる。じゃりとりの人達は、その代金二、三銭を払って通過すると、次は最大の難所「大渡橋下」が待ち構えている。

西 輝喜

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

39号 2013年(平成25年)9月20日

津方会所の顕彰標木
川尻三丁目(下外城)下田精一さん方の駐車場入口に表記の標木が立ちました。
津方会所とは江戸幕府時代、熊本藩川尻町奉行所支配で、現在の税関事務に類する仕事をしていたところです。
川尻に入港する船舶は川口の番所で調べを受け、更にこの津方役人の臨検を受けて運上金を納める。出港する時は、津方の手形交付を受け、河口の川口番所の取調べを再び受ける仕組みでした。
川尻町史掲載の川尻津方運上銀覚(物資の輸出入税年平均)によれば「宝暦年中より明和、安永、天明年中まで銀百貫目余宛御座候」とあります。つまり年間銀百貫目(現在のお金に換算して二億五千万円ほど)が藩に入っていたのです。この収入は、赤字続きの肥後藩に大きな潤いとなったでしょう。
宝暦(一七五〇年代)から天明(一七八〇年代)の細川藩主は六代重賢公で、今から二百五十年ほど前のことです。しかし残念ながら、重賢公が亡くなられた以降は交易が減り、運上金は年々減少していきます。

港湾管理規則
細川藩は川尻港の繁栄に従って種々の規則を定めました。交易がスムーズに行われるための配慮です。これを「川尻町支配定式」といい、藩が川尻町奉行に命じたものです。それが、下町の「和泉屋」に保存されていました。(一九七八・四・十四、西日本新聞)
廻船問屋和泉屋を営む馬原家は川尻町内随一の資産家、有力者で町頭役など末端行政を委託されていました。
次の条文の一部は当時の川尻港の様子を推察できます。
一、河口の番人は常々油断なく通行させねばならない。
一、他国の商人が河口に出入りし、または町中に宿泊する時は、河口で宗門往来手形を確認せよ。
一、他国者が往来手形を持たない場合、領内に宿泊させてはならない。ただし、直ちに他国へ去る者は通してよい。
一、廻船が港に入る場合は、積荷内容を河口番人に報ずること。

*古文書から港湾管理規則に関する事件を拾ってみますと、昔も今も変わらぬ世情を窺い知ることができます。
「某問屋が潮合指し急いでいたので。仮手形を持って御番所へ申し断り出帆した。ところが川口御番人に咎められた。旅船は潮合がある。一時の遅れは数日の滞りにもなる。旅人は難渋する・・・」
文政十二年丑 九月二十五日   稲津 久兵衛

この古文書から「手形は遅滞なく出せ」とのお達しだったようです。
稲津久兵衛は文政十一年(一八二八)から天保元年(一八三〇)まで川尻町奉行を務めた人です。
西 輝喜2009年(平成21年)4月20日

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

38号 2013年(平成25年)6月20日

忘れ去られる地名    その四

 西村 「肥後国誌」では託麻郡本庄手永に属し、若宮大明神社が記してあります。「国郡一統志」には若宮 観音が見えます。明冶七年(1874)合併して元三村となりました。

 平野  南北朝期に書かれたと推定される詫摩文書に「一所、平野の屋敷事」と見え、詫摩氏が当地内に屋敷を持っていたことが分かります。

 近世の「肥後国誌」では本庄手永に属し、天神社があります。「国郡一統志」では「天神二所」と記されています。明冶七年合併して元三村となりました。

 岡町  若宮神宮に近いため、鶴が岡八幡宮の岡をとって岡町。人々の敬神の念が篤いことの表れが、岡町の町名となったのでしょう。

 椎田村 慶長十二年(1607)の検地帳に志井田村と記され、肥後国誌には椎田、北・中・南椎田と記してあります。

 八幡町 八幡信仰は大分県の宇佐八幡宮に代表される信仰で、平安朝初期の貞観二年(860)平安京鎮護として石清水に勧請された後、清和源氏一族の氏神として、武神的性格を強め武士の守り神として全国各地に勧請されました。河尻神宮の主神が鶴岡八幡宮であり、その縁で八幡の地名が付いたと考えられます。 

 明冶七年(1874)、椎田村、北・中・南椎田が合併して八幡村になり、昭和十五年熊本市と合併して八幡(やはた)町となりました。

 

*地名の原点は小字(こあざ)です。参考までに椎田の下げ名(小字)を記してみます。

 高 田  タカタ     田潟、潟の意?

 北堀川  キタホリカワ  北方の用水溝

 村 東  ムラヒガシ   集落の東

 北村脇  キタムラワキ  分かれた、分村

 壱町畑  イッチョバタ  壱町もある広い耕作地

 東 原  ヒガシバル   集落の東、ハルは開くの意

 楠 原  クスブン    砂地の海、崩壊地形を示す。分は区分

 北ノ前  キタノマエ   前面。特に寺社、仏閣の前方。

 鳥居崎  トリイザキ   神社、鳥居のある所

 小 碇  コイカリ    田に引く水路の水門。堰(せき)

 八反田  ハッタンダ   一枚で八反もある広い田圃

 六反田  ロクタンダ   JR無田川鉄橋付近。広い田圃の意。

 城ノ後  ジョウノシロ  河尻城のうしろ

 椎田屋敷 シイダヤシキ  江戸時代の庄屋(しょうや)の屋敷跡  

 乾角屋敷 イネズミヤシキ 亥(イ)は北西、子(ネ)は北

 

地名は古来から、その場所を自他に示すために使用し続けてたものです。その由緒ある地名も消滅の危機が訪れています。私たちは改めて地名の持つ意味と、その重みを再検討する必要があると思います。地名を残すためには、日常生活の中で「その地名を多く使い続けること」も一つではないでしょうか。

                                                                                                                                    西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。