41号 2014年(平成26年)2月20日
砂利(じゃっ)取(と)り舟 その二
大渡橋下は「百間端」とも呼ばれ恐れられていました。流れが速い上、沢山の橋杙が立っている。舳先がこの橋杙に当たれば、舟はその衝撃で沈没するどころか、投げ出される船頭の命さえ危ない。
五、六艘連なって通るが、後ろの熟練者から「おさえろ」「ひかえろ」等と注意が飛ぶ。おさえろとは舳先を右へ、ひかえろとは左へという指示である。誰れしも命がけで櫓を操る。何十年船頭をやっていても、「この難所を過ぎるとほっとしていた」という。御蔵前の船着場で砂利を降ろすとすぐに引き返す。
普通午前中二回、午後一回の砂利掬いであったが、後半は腰が痛く、腕もしびれる重労働でした。
服装は筒袖の着物に素足のため、冬は背中に綿入れ半てん等を着込んでいたが、腰まで水につかるので、寒さで手足はかじかみ紫色になっていた。昭和の初め頃から作業服が店頭に出回ると仕事もし易くなり、昭和十六年ダバが発売されると、幾分かは寒さから逃れることが出来たそうです。
昭和十八年末、加勢川は現在の川筋となり大渡橋下を通る河川は廃止された。従って、マイタ、マイタの施設も不要となり撤去されました。 
それ以降、舟は大禅寺河原に係留して置き丹生宮で採った砂利は大禅寺河原に積み上げ販売されていましたが、採取の機械化や需要の低下とともに昭和四十年代、砂利取り舟はその姿を消してしまいました。
なお、業者が機械掘りに使用した巨大な用具も採算が合わないのか、中牟田閘門の少し上流に放置されたまま無残な姿をさらしています。
[引っ込み線]
三ヶ所九棟あった川尻米蔵(御蔵)も明治になると、外城蔵二棟を残して取り壊されます。この二棟は後に米券倉庫として活用されました。 
明治二十七(一八九四)年八月十七日、川尻停車場(駅)に汽車が来ました。当時は九州鉄道会社という民営の会社でした。
この頃二棟の米蔵に収められた米の輸送は船、荷馬車、貨物自動車等と多様でしたが、遠方への輸送は船に代わって鉄道貨物輸送となったのです。
停車場から鉄道線路の東側(現在は道路) に沿って船着場の道路まで線路が敷かれました。米券倉庫(御蔵)に収納されていた米は係の厳しい検査を受けると、仲仕が担いで鉄橋の東側に待つ貨車へ積み込む、積荷を満載した貨車は重い。仲仕や屈強な若者たちが肩に厚い布を当て、貨車を押して無田川に架かる低い鉄橋を越え、現在の川尻小学校樹木園を通り、裏無田川の鉄橋を渡り停車場まで運んでいました。

引っ込み線はやがて米だけではなく、砂・砂利の輸送にも利用されるようになると、緑川の砂利取りは一躍盛んとなりました。船着場の岸に積まれた砂や砂利は「ジャリ」と呼ばれていた人夫達が浅い丸ショーケや畚を天秤棒で担ぎ、無蓋車に積んでいました。
ジャリは一回毎に「札」を貰い、最後にその札を監督に差し出し、賃金を受け取っていました。
この貨車積みも昭和十三年まででした。
西 輝喜

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

40号 2013年(平成25年)10月20日

砂利(じゃっ)()り舟 その一

私がこの川尻町に居を移した昭和二十九年、五・六艘の砂利取り舟が連らなって棹を巧みに操りながら緑川を遡上していた姿に接した時、その牧歌的な風景に感動を覚えました。

当時、砂利は道路工事や鉄道関係からの需要が多く、川尻に荷揚げする舟は百艘を数えたそうです。

まず、日本の道路行政を考察してみると、江戸時代まで人馬による徒歩交通で車輌の普及は制限されていたようでした。つまり江戸時代の土木行政の重点は治水灌漑に置かれ、軍事的考慮からか、道路の新設とか改修にはいろいろ制限がなされていたのです。

文久三年(一八六三)、十四代将軍(いえ)(もち)が上洛時、箱根山中のぬかるみに丸石を入れ道路の補修をして通行した記録がある程度の道路行政でした。

明治維新前後から道路が砕石道、砂利道になっていくと駕籠にかわって人力車、荷馬車、客馬車、自転車、自動車等が相次いで登場するなど一気に交通形態が変わり、砂利、バラス、砂の需要が高まるばかりでした。

ちなみに川尻町の重要幹線、薩摩街道は幅員僅か五メートル余。しかも屈曲急な部分もあって危険な常態でしたので、昭和九年十一月に新町橋まで幅員十三メートルの直線砂利道に改修されました。

限りなく需要が多くなる砂利の採取は、河岸を護るため「河川法」で厳しい制限がありました。川尻町付近では、城南町の仲間(なかま)河原(丹生宮(にゅうのみや))だけが採取許可区域でした。

川尻近くで砂利が多いところは採取禁止区域の河川敷(高水敷)近くです。その河川敷には養蚕農家が桑を植えていたので、この近くの砂利を掬い揚げると桑畑が崩壊する恐れがあり、農家との対立が絶えませんでした。農家からの連絡があると、県の河川課とか警察からの巡視があっていたようです。

砂利取りをする舟は、小回りのきく底が浅い五枚舟の川平田で「砂利取り舟」と呼ばれていました。この舟は江戸時代、農村からの買い付け、日用雑貨の集落地への輸送、御」船・甲佐地方への米搗き等に利用されていましたが、明治期の経済流通の著しい変革により、殆どが砂利取り用に転用したそうです。

夏も冬も夜明けとともに家を出て舟係留地に向かい、待ち合わせの人達と丹生宮の砂利取り場へ出発する。

各々適当な場所に陣取ると川底の砂利をジャッタブという塵取り型の容器で掬い揚げる。舟一杯に積み込むと下流の川尻へ櫓を漕いで下る。(上流へ向かう時は棹)高村の千本杭の難所を通過し一キロメートル程下ると加勢川との合流点、うっ出し(通称マイタ、マイタ)に差し掛かる。

加勢川の水位は緑川より四尺(一メートル二十センチ)ほど高い。ここより緑川と加勢川とは並行して流れているが、水位の落差が二尺もあるため石の堤防で仕切られていた。従って、激流のうっ出しを二尺も遡って加勢川に水路を変えることは到底出来ない。そこで川尻や江津方向に行く舟のため、軸を手動で回し舟を引き上げる施設とそれを操作する人が待機していた。

舟から「マイタ、マイタ」と叫ぶと、番人が八番線の針金を三本より合わせたロープの引っ掛けを回してくる。船頭がそれを舳先に付けると番人は軸を回して加勢川へ引き上げる。じゃりとりの人達は、その代金二、三銭を払って通過すると、次は最大の難所「大渡橋下」が待ち構えている。

西 輝喜

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

39号 2013年(平成25年)9月20日

津方会所の顕彰標木
川尻三丁目(下外城)下田精一さん方の駐車場入口に表記の標木が立ちました。
津方会所とは江戸幕府時代、熊本藩川尻町奉行所支配で、現在の税関事務に類する仕事をしていたところです。
川尻に入港する船舶は川口の番所で調べを受け、更にこの津方役人の臨検を受けて運上金を納める。出港する時は、津方の手形交付を受け、河口の川口番所の取調べを再び受ける仕組みでした。
川尻町史掲載の川尻津方運上銀覚(物資の輸出入税年平均)によれば「宝暦年中より明和、安永、天明年中まで銀百貫目余宛御座候」とあります。つまり年間銀百貫目(現在のお金に換算して二億五千万円ほど)が藩に入っていたのです。この収入は、赤字続きの肥後藩に大きな潤いとなったでしょう。
宝暦(一七五〇年代)から天明(一七八〇年代)の細川藩主は六代重賢公で、今から二百五十年ほど前のことです。しかし残念ながら、重賢公が亡くなられた以降は交易が減り、運上金は年々減少していきます。

港湾管理規則
細川藩は川尻港の繁栄に従って種々の規則を定めました。交易がスムーズに行われるための配慮です。これを「川尻町支配定式」といい、藩が川尻町奉行に命じたものです。それが、下町の「和泉屋」に保存されていました。(一九七八・四・十四、西日本新聞)
廻船問屋和泉屋を営む馬原家は川尻町内随一の資産家、有力者で町頭役など末端行政を委託されていました。
次の条文の一部は当時の川尻港の様子を推察できます。
一、河口の番人は常々油断なく通行させねばならない。
一、他国の商人が河口に出入りし、または町中に宿泊する時は、河口で宗門往来手形を確認せよ。
一、他国者が往来手形を持たない場合、領内に宿泊させてはならない。ただし、直ちに他国へ去る者は通してよい。
一、廻船が港に入る場合は、積荷内容を河口番人に報ずること。

*古文書から港湾管理規則に関する事件を拾ってみますと、昔も今も変わらぬ世情を窺い知ることができます。
「某問屋が潮合指し急いでいたので。仮手形を持って御番所へ申し断り出帆した。ところが川口御番人に咎められた。旅船は潮合がある。一時の遅れは数日の滞りにもなる。旅人は難渋する・・・」
文政十二年丑 九月二十五日   稲津 久兵衛

この古文書から「手形は遅滞なく出せ」とのお達しだったようです。
稲津久兵衛は文政十一年(一八二八)から天保元年(一八三〇)まで川尻町奉行を務めた人です。
西 輝喜2009年(平成21年)4月20日

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

38号 2013年(平成25年)6月20日

忘れ去られる地名    その四

 西村 「肥後国誌」では託麻郡本庄手永に属し、若宮大明神社が記してあります。「国郡一統志」には若宮 観音が見えます。明冶七年(1874)合併して元三村となりました。

 平野  南北朝期に書かれたと推定される詫摩文書に「一所、平野の屋敷事」と見え、詫摩氏が当地内に屋敷を持っていたことが分かります。

 近世の「肥後国誌」では本庄手永に属し、天神社があります。「国郡一統志」では「天神二所」と記されています。明冶七年合併して元三村となりました。

 岡町  若宮神宮に近いため、鶴が岡八幡宮の岡をとって岡町。人々の敬神の念が篤いことの表れが、岡町の町名となったのでしょう。

 椎田村 慶長十二年(1607)の検地帳に志井田村と記され、肥後国誌には椎田、北・中・南椎田と記してあります。

 八幡町 八幡信仰は大分県の宇佐八幡宮に代表される信仰で、平安朝初期の貞観二年(860)平安京鎮護として石清水に勧請された後、清和源氏一族の氏神として、武神的性格を強め武士の守り神として全国各地に勧請されました。河尻神宮の主神が鶴岡八幡宮であり、その縁で八幡の地名が付いたと考えられます。 

 明冶七年(1874)、椎田村、北・中・南椎田が合併して八幡村になり、昭和十五年熊本市と合併して八幡(やはた)町となりました。

 

*地名の原点は小字(こあざ)です。参考までに椎田の下げ名(小字)を記してみます。

 高 田  タカタ     田潟、潟の意?

 北堀川  キタホリカワ  北方の用水溝

 村 東  ムラヒガシ   集落の東

 北村脇  キタムラワキ  分かれた、分村

 壱町畑  イッチョバタ  壱町もある広い耕作地

 東 原  ヒガシバル   集落の東、ハルは開くの意

 楠 原  クスブン    砂地の海、崩壊地形を示す。分は区分

 北ノ前  キタノマエ   前面。特に寺社、仏閣の前方。

 鳥居崎  トリイザキ   神社、鳥居のある所

 小 碇  コイカリ    田に引く水路の水門。堰(せき)

 八反田  ハッタンダ   一枚で八反もある広い田圃

 六反田  ロクタンダ   JR無田川鉄橋付近。広い田圃の意。

 城ノ後  ジョウノシロ  河尻城のうしろ

 椎田屋敷 シイダヤシキ  江戸時代の庄屋(しょうや)の屋敷跡  

 乾角屋敷 イネズミヤシキ 亥(イ)は北西、子(ネ)は北

 

地名は古来から、その場所を自他に示すために使用し続けてたものです。その由緒ある地名も消滅の危機が訪れています。私たちは改めて地名の持つ意味と、その重みを再検討する必要があると思います。地名を残すためには、日常生活の中で「その地名を多く使い続けること」も一つではないでしょうか。

                                                                                                                                    西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

37号 2013年(平成25年)4月20日

 忘れ去られる地名    その三

 「川尻町の初めは本町、見世町、新町なり」、「下町は本町の下手に町出来下町と名付、此処は河尻家時代は知行取屋敷なり」、「本町を中町と言ふは下町出来て後なり」(雑事)、川尻の集落は四つ角付近から形成されたようで、この辺りが町の中心地だったのでしょう。

 *一般的な呼称として上町、中町、下町などの名称が付くのは川の上流から下流に向かって、その順序に並ぶのが原則です。

 正中島町とは正中年間(1324~1326)に琵琶島に町が出来、その時の年号をとって正中島町と名付けられました。正中とは鎌倉時代末期の後醍醐天皇の年号で、当時この島は船が発着する川尻港の中心地だったと思われます。

 それ故に河尻城主の河尻三郎は港繁栄のために七福神の一つ、江の島弁財天の分霊を、この地に勧請したのでしょう。川尻の町では「弁天さんを祀ってあるから正中島の女性は皆美人に生まれる」との言い伝えがあります。

 新町の本立寺(ほんりゅうじ)境内に三十番神が祀ってあります。横町は鍛冶屋町です。火災予防に島原の護国寺(日蓮宗)から「蘇生三十番神」を勧請したのです

堂内須弥壇には八神が四段、合わせて三十二神が祀られており、順番に毎日一神が町を護られます。三十一日のある月は三十一神と三十二神が交互に町を護られます。お陰で勧請以来、町が火災に遭うことはなかったようです。

 ところで、番神の中に僧形が二、三見受けられます。「神仏習合」です。つまり、神と仏とは本質において一つであるという神仏一体化をみることが出来、日本の神々の奥深さ、仏教とのかかわりの深さが感じられます。

 横町は中心地から横に伸びた町の意と思われます。

 田町の「タ」は方向、場所を示すもので、水田の意味ではなく、ハタ(端)、ヘタ(辺)などのタです。カナタ(彼方)、コナタ(此方)など地名では場所を示します。つまり中心地の端、辺を指す地名でしょう。

 大渡町。川尻と富合町杉島を結ぶ薩摩街道の舟渡し場を大渡といい、白川、緑川、加勢川が大慈寺の少し上で合流して流れる九州一の難所でした。従って溺死者も多く人々は難儀していました。建久二(1276)年、法皇禅師寒巖(かんがん)()(いん)は四方に告げて川尻大渡に長橋を作らしむ(川尻町史)

 弘安元(1278)年、長さ約百五十メートル、幅約五メートルの大橋が完成、大渡橋と名付けられ、この集落を大渡町と呼ぶようになります。

 野田町。野は田畑、野田とは起伏のある平坦地の地名です。慶長の検地帳に上田畑が多いとあります。しかし野田には荒野とか湿地(ヌタと同系)の意もあるので、大雨で泥田のようにぬかるむ所もあったのでしょう。野田には藤原時代、長徳寺(学承院)がありました。世安町の無漏寺、十禅寺町の山王社(日吉神社)とともに、古代宗教文化の先進地でした。大切な地名としては談議所跡(仏教の意義を説く所)、中世末期の万善寺跡(フルデラ)等があります。

 なお、下げ名に土()井内(いのうち)がありますが、土井内とは一般に土塁のある名主の邸を指しますが、ドエ(崩壊)もそう呼びますので、緑川の浸食地形かも知れません。

 元三町は明治七年、西村・平野・方指崎が合併して出来た町です。方指崎とは国志草稿に「牓示崎(ぼうじさき)」、慶長八年の検地帳に「牓示崎村」と記してあります。これは四至牓示(ししぼうじ)で荘園の領域境界を示す四隅の標識のことです。つまり、方指崎は貴族の荘園で牓示崎が方指崎へと変化したものです。なお、この地域は加藤清正支配下の時代にも太閤(豊臣秀吉)の蔵入地であったようです。

                                                                                                                           西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

36号 2013年(平成25年)2月20日

 

忘れ去られる地名    その二

東西五百メートル、南北二百五十メートルと推定される河尻城は鎌倉初期の館城(やかたじろ)です。城館要所の出入口は櫓門(やぐらもん)を備え、回りは塀や柵で守られた程度でした。後で堀や土塁を巡らしたものへ発展していきます。しかし、河尻城は水城で、周囲を川で防いでいたようです。

外城町とは鎌倉から室町時代にかけて、河尻城のあったその外側の町で、城内にに住む人々や近くの集落の人達が買物に集まる商店街の町だったようです。

海辺、山手の集落から舟で魚や野菜を運び、室町時代には多分定めた日に「市」がたっていたと思われます。また、川尻町史にある江戸時代の絵図に変体仮名で「ととう」(渡唐)の文字が三ヶ所記してあります。これは中国の交易船が来航した時の通訳とか、交易品の売買に携わる唐人の住居でした。

十六番神は加勢川遊歩道堤防に鎮座して、益本家が祀っています。祭神は十六個の石です。そのいわれ(由緒)を記しますと、河尻城主は妻室が浮気をしていると嫉妬してその相手をこっそりと殺害します。数年後この事実を知った妻女は、こんな情けない夫に仕えも益なしと館を飛び出し、川辺に走り来ると両袂に石を入れ身投げします。日頃から妻女を尊敬する下女たち十五人も袂に石を入れて「奥方様」と叫びながら次々と後を追い河に飛び込みました。

これを哀れんだ里人は、袂にあった十六個の石を川辺に、後の十六個を河尻神宮境内に祀り供養を続けています。

船頭町 加藤忠広(清正の嫡子)が熊本藩主の時、河尻城は藩命により潰され、城跡は空地となります。その地を細川藩は水軍(海軍)、つまり船頭(船長)加子衆(水夫)の居住地にしました。この町の下げ名(小字)に十か所(じっかせい)があります。十か所とは町奉行所直属の拾(十)の役所があったところです。(第三十五号、雑事参照)

なお、外城町野田本家前の北への道路は明治の頃までサギが遊んでいたという内堀跡で無田川との交差点辺りは、河尻城より亥(北西)子(北)の隅に当たるので乾角(イネズミ)の地名が付きました。また、外城郵便局横の道を少し北に進み、東に曲がると無田川から入り込んだ堀があり、藩の役所材木方のあったところで「オザイカタ」と呼ばれています。その他、地蔵町など歴史の一杯詰まった全国的にもまれな誇り高い地名です。

小路町はしゅうじ町と呼びますが、小路とは狭い道の意ではなく、大路の枝道を指すのが一般的です。

「小路町は河尻家コフジ丁故小路町と名付た」

*雑事

二つの解釈があります。

一、コフ(古府、または国府の転)路。古代小路(コウジ)は、国府路の意で

江戸時代から小路と変化したようで、河尻城へ行く道。

二、古語のコフ(雇夫)路。つまり、河尻城で働く人々の住む町。

このどちらかでしょう。 

                                                         西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。