37号 2013年(平成25年)4月20日

 忘れ去られる地名    その三

 「川尻町の初めは本町、見世町、新町なり」、「下町は本町の下手に町出来下町と名付、此処は河尻家時代は知行取屋敷なり」、「本町を中町と言ふは下町出来て後なり」(雑事)、川尻の集落は四つ角付近から形成されたようで、この辺りが町の中心地だったのでしょう。

 *一般的な呼称として上町、中町、下町などの名称が付くのは川の上流から下流に向かって、その順序に並ぶのが原則です。

 正中島町とは正中年間(1324~1326)に琵琶島に町が出来、その時の年号をとって正中島町と名付けられました。正中とは鎌倉時代末期の後醍醐天皇の年号で、当時この島は船が発着する川尻港の中心地だったと思われます。

 それ故に河尻城主の河尻三郎は港繁栄のために七福神の一つ、江の島弁財天の分霊を、この地に勧請したのでしょう。川尻の町では「弁天さんを祀ってあるから正中島の女性は皆美人に生まれる」との言い伝えがあります。

 新町の本立寺(ほんりゅうじ)境内に三十番神が祀ってあります。横町は鍛冶屋町です。火災予防に島原の護国寺(日蓮宗)から「蘇生三十番神」を勧請したのです

堂内須弥壇には八神が四段、合わせて三十二神が祀られており、順番に毎日一神が町を護られます。三十一日のある月は三十一神と三十二神が交互に町を護られます。お陰で勧請以来、町が火災に遭うことはなかったようです。

 ところで、番神の中に僧形が二、三見受けられます。「神仏習合」です。つまり、神と仏とは本質において一つであるという神仏一体化をみることが出来、日本の神々の奥深さ、仏教とのかかわりの深さが感じられます。

 横町は中心地から横に伸びた町の意と思われます。

 田町の「タ」は方向、場所を示すもので、水田の意味ではなく、ハタ(端)、ヘタ(辺)などのタです。カナタ(彼方)、コナタ(此方)など地名では場所を示します。つまり中心地の端、辺を指す地名でしょう。

 大渡町。川尻と富合町杉島を結ぶ薩摩街道の舟渡し場を大渡といい、白川、緑川、加勢川が大慈寺の少し上で合流して流れる九州一の難所でした。従って溺死者も多く人々は難儀していました。建久二(1276)年、法皇禅師寒巖(かんがん)()(いん)は四方に告げて川尻大渡に長橋を作らしむ(川尻町史)

 弘安元(1278)年、長さ約百五十メートル、幅約五メートルの大橋が完成、大渡橋と名付けられ、この集落を大渡町と呼ぶようになります。

 野田町。野は田畑、野田とは起伏のある平坦地の地名です。慶長の検地帳に上田畑が多いとあります。しかし野田には荒野とか湿地(ヌタと同系)の意もあるので、大雨で泥田のようにぬかるむ所もあったのでしょう。野田には藤原時代、長徳寺(学承院)がありました。世安町の無漏寺、十禅寺町の山王社(日吉神社)とともに、古代宗教文化の先進地でした。大切な地名としては談議所跡(仏教の意義を説く所)、中世末期の万善寺跡(フルデラ)等があります。

 なお、下げ名に土()井内(いのうち)がありますが、土井内とは一般に土塁のある名主の邸を指しますが、ドエ(崩壊)もそう呼びますので、緑川の浸食地形かも知れません。

 元三町は明治七年、西村・平野・方指崎が合併して出来た町です。方指崎とは国志草稿に「牓示崎(ぼうじさき)」、慶長八年の検地帳に「牓示崎村」と記してあります。これは四至牓示(ししぼうじ)で荘園の領域境界を示す四隅の標識のことです。つまり、方指崎は貴族の荘園で牓示崎が方指崎へと変化したものです。なお、この地域は加藤清正支配下の時代にも太閤(豊臣秀吉)の蔵入地であったようです。

                                                                                                                           西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。