36号 2013年(平成25年)2月20日

 

忘れ去られる地名    その二

東西五百メートル、南北二百五十メートルと推定される河尻城は鎌倉初期の館城(やかたじろ)です。城館要所の出入口は櫓門(やぐらもん)を備え、回りは塀や柵で守られた程度でした。後で堀や土塁を巡らしたものへ発展していきます。しかし、河尻城は水城で、周囲を川で防いでいたようです。

外城町とは鎌倉から室町時代にかけて、河尻城のあったその外側の町で、城内にに住む人々や近くの集落の人達が買物に集まる商店街の町だったようです。

海辺、山手の集落から舟で魚や野菜を運び、室町時代には多分定めた日に「市」がたっていたと思われます。また、川尻町史にある江戸時代の絵図に変体仮名で「ととう」(渡唐)の文字が三ヶ所記してあります。これは中国の交易船が来航した時の通訳とか、交易品の売買に携わる唐人の住居でした。

十六番神は加勢川遊歩道堤防に鎮座して、益本家が祀っています。祭神は十六個の石です。そのいわれ(由緒)を記しますと、河尻城主は妻室が浮気をしていると嫉妬してその相手をこっそりと殺害します。数年後この事実を知った妻女は、こんな情けない夫に仕えも益なしと館を飛び出し、川辺に走り来ると両袂に石を入れ身投げします。日頃から妻女を尊敬する下女たち十五人も袂に石を入れて「奥方様」と叫びながら次々と後を追い河に飛び込みました。

これを哀れんだ里人は、袂にあった十六個の石を川辺に、後の十六個を河尻神宮境内に祀り供養を続けています。

船頭町 加藤忠広(清正の嫡子)が熊本藩主の時、河尻城は藩命により潰され、城跡は空地となります。その地を細川藩は水軍(海軍)、つまり船頭(船長)加子衆(水夫)の居住地にしました。この町の下げ名(小字)に十か所(じっかせい)があります。十か所とは町奉行所直属の拾(十)の役所があったところです。(第三十五号、雑事参照)

なお、外城町野田本家前の北への道路は明治の頃までサギが遊んでいたという内堀跡で無田川との交差点辺りは、河尻城より亥(北西)子(北)の隅に当たるので乾角(イネズミ)の地名が付きました。また、外城郵便局横の道を少し北に進み、東に曲がると無田川から入り込んだ堀があり、藩の役所材木方のあったところで「オザイカタ」と呼ばれています。その他、地蔵町など歴史の一杯詰まった全国的にもまれな誇り高い地名です。

小路町はしゅうじ町と呼びますが、小路とは狭い道の意ではなく、大路の枝道を指すのが一般的です。

「小路町は河尻家コフジ丁故小路町と名付た」

*雑事

二つの解釈があります。

一、コフ(古府、または国府の転)路。古代小路(コウジ)は、国府路の意で

江戸時代から小路と変化したようで、河尻城へ行く道。

二、古語のコフ(雇夫)路。つまり、河尻城で働く人々の住む町。

このどちらかでしょう。 

                                                         西 輝喜

 

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。