32号 2012年(平成24年)9月20日

伝統産業の町川尻の諸識

染 物   その二

藍甕(あいがめ)

藍甕は、高さ一メートル三十センチ、胴回り二メートル七十センチ、口径八十センチ程の陶器です。この藍甕の口部を十センチ程地上に出して、本体を庭の地中に三つ並びに埋め込みます。

そして「藍を出す」と言って、藍甕と藍甕の中間、しかも地中に埋め込んだ火(ひ)室(むろ)で鋸屑を燃やします。藍甕は一年を通じて温度が一定していなければなりません。この温度を保つことを「守りする」という程ゆるがせにはできない大切なことです。その温度は門外不出とされ、その店主の「秘伝」でした。

藍甕は従業員一人に三本、予備の一本を加えて四本を受け持つのが一般的でした。従って大店で五十本、小さい店で二十本は備えていたようです。

藍染めといえば単純な絞り染めと思われがちですが、絞り染めには沢山の技法があり、特に図柄(模様)作りは苦労の多いものでした。

なお、染色業の最盛期は大正末から昭和中頃までで、特に五月五日の端午の節句前には、出世魚の鯉にあやかっての真鯉、緋鯉、子鯉の注文が相次ぎ、武者絵の染め抜き、名前旗等の作成と併せて日夜仕事に追われたといいます。

肥後絣(ひごがすり)

肥後絣はかって農村、漁村で普段着として着用されていた藍染めの木綿織物です。岡町の宮崎染織では大正十(一九二一)年十月、刈草町に「綿布工場」を設立、豊田織機を三十台購入して操業を始め、製品を藍の香りを生かした「肥後絣」と名付けました。

木綿を生産しない川尻で肥後絣を織ることにしたのは、水量豊かな川と長い伝統と優れた染織技術、加えて町周辺農家の人手でした。しかし、生活文化の向上に伴って絣の需要は落ち、昭和五十七(一九八二)年には姿を消してしまいました。貴重な動力織機、力(りき)織機は今はない。残念なことです。

川尻音頭に肥後かすりが謡われていますので紹介します。

三、さあさあ あなたも 川尻音頭ヤレソレソレ

川尻名物、酒 桶 刃物

あの娘かわいい 肥後かすり

川は加勢川みどり川  みどり川

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。