2018年(平成30年)5月20日 「かわしり遍路」6

 

日本の歴史を語る寺

 

 バス通りの川尻四つ角を西に折れると、川尻の繁栄を今に伝える瑞鷹(株)本店・倉庫、今村家(塩飽(しわく)屋)等の景観建造物が軒を連ね、古の川尻にタイムスリップしたような風景に一変します。この道をさらに西へ進むと、JR九州の在来線、九州新幹線高架橋に至りますが、この高架橋の両側一帯が、国史跡熊本藩川尻米蔵跡(船着き場跡、外城(とじょう)蔵跡、御船手渡し場跡)です。外城蔵跡近くには、細川藩の奉行所、お茶屋が置かれたと記されていますが、はっきりした場所は分かっていません。JR高架橋をくぐると、外城町です。地名は、河尻城(註1)が城郭(内城と外城)を形成していたころからの地名と思われます。近代に入っても第二次大戦前頃までは、お船手(富合町)や外城の住民は「外城内で食料から日用雑貨に至る全ての生活用品を買い揃えることが出来た」といいます。

 

 この外城に、歴史上重要な会議が開かれたお寺があります。佛石山 泰養寺(川尻三丁目四―十七)です。泰養寺は、今から約五百年前の享禄二(1529)年に建てられた草庵(浄光寺)に始まり、寶永六(1709)年、泰養寺と改称になりました。   

 

 この泰養寺で開かれた会議(軍議)、一つは、寛永十四(1637)年から翌年にかけて、キリシタン教徒らが蜂起した島原の乱(註2)の制圧に際し、幕府の命を受けた細川忠(ただ)利(とし)は、光利を総大将に数万の大軍を出陣させます。その多くは、川尻港より軍船で島原の原城へ向かいますが、この時、多くの将が泰養寺に泊まり、軍議を開いたと伝えられています。後に、細川忠利は、このことを賞し、九曜の紋入りの屋根瓦(庫裡、山門、鐘楼堂)と鐘楼を泰養寺に寄進しています。

 

 もう一つは、明治十(1877)年二月から始まった西南戦争(註3)で、新政厚徳を掲げて薩摩を発った西郷隆盛率いる薩軍一万二千の軍勢が、次々と川尻に到着。川尻からの北上に際し、薩軍の桐野利秋、村田新八、篠原国幹ら幹部が、二十一日の夜、泰養寺に集まり「全軍での熊本城総攻撃」か「北上軍・熊本城攻撃軍の両面作戦」を論議します。翌早朝、熊本城の総攻撃が始まり、壮烈な田原坂戦に移ると川尻町には、多くの薩軍負傷兵、戦死者が運び込まれ、町の全ての寺院と大家が病院となります。泰養寺は七番病院となり、多くの薩軍負傷者を看護した記録が残っています。

 

 これらの多くの歴史を刻み続けた泰養寺は、先の熊本地震で大きく損壊、現在、本堂の再建が行われています。来年の夏には、境内の大きな銀杏の下で遊ぶ子供たちの歓声が外城町に響き渡るのが楽しみです                         

 

荒金 錬一

 

 

註1.河尻城 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた頃(建久三年・1192)、地頭として下向した河尻三郎実明が造ったとされる平城。河尻氏は、足利兄弟の対立(観応の擾乱)、菊池家との諍い等を経ながら、応永十五(1408)年の夏、菊池兼朝に攻められます。十一代実昭は城を脱出し行方不明、河尻城が終焉します。

 

註2.島原・天草の乱 寛永十四(1637)年、圧政に加え三年続きの大飢饉と宗教弾圧を受けた天草、島原のキリシタンと農民ら合わせて3万7千人が天草四郎時貞(宇土の下級武士益田甚兵衛の四男、益田四郎)を総大将に島原の原城(平山城)に七十日間籠城、幕府軍12万5千人と戦った一揆。

 

註3.西南戦争 鹿児島の私学校生を中心とした薩摩士族たちが、征韓論に敗れ下野した陸軍大将西郷隆盛を擁して熊本県内を中心に政府軍と戦った国内最後の内乱。二月二十二日から九月二十四日の西郷隆盛の自刃まで七ケ月間に亘る血戦が繰り広げられ、政府軍6923人、薩軍7186人が戦死した。

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。