27号 2011年(平成23年)12月20日
伝統産業の町川尻の諸識
鍛 冶 その一
鍛冶は室町時代の応仁年間(一四六〇~一四六九)に薩摩の刀工、波平行安が、焼き入れに使う良質の水を求めて各地を訪ね歩き、川尻の水を得て当地で刀鍛冶を始めたのが起源と伝えられています。
伝承によれば川尻の横町天満宮北側に刀工の祠(神を祀った社)があり、その付近から波平氏の名を刻んだ石灯籠と無数の金屑、使い古した「ふいご」などが発見されたといいます。なお、石灯籠は、鍛冶の上達を祈願したものです。
この由緒ある横町には鍛冶屋が軒を並べ、通称「鍛冶屋町」と呼ばれ、刀だけでなく各種の用具を作り、商港川尻の盛んな水運とともに発展します。
(専門分野)
鍛冶はそれぞれの専門業者に分かれていました。昭和初期一七軒のうち刀鍛冶・鍔鍛冶・野鍛冶(農具を中心)・包丁鍛冶・船釘・大工釘・馬車・蹄鉄などの分野がありました。
(弟子入り)
高等小学校を卒業(一四歳)すると伝を頼って弟子入りを希望する「徒弟制」でした。弟子入りが決まると親は酒一升と手土産を持ち、子供を連れて親方の家を訪ねて、親方と約束固めをしました。これは本人に厳しい修行の自覚を促す儀式でした。
その日から始まる親方と弟子の主従関係は年季明け後も長期に亘るのが通例でした。昔の年季は技術の習得が目安でしたが、昭和期になると年季はほぼ五、六年で「徴兵により年季明け」とするのが一般的となります。年季の間は無給で、時々小遣い銭が貰える程度でした。
(弟子の仕事)
鍛冶屋の仕事は普通朝の八時頃から夕方六時頃までしたが、新入りは皆より一時間程早くから仕事場の掃除、水床の水替え、炭割り、ほど(火床)の火起こしなどをして親方や兄弟子を待っていなければなりませんでした。
仕事が始まれば、包丁や鎌などの柄作り、刃物研ぎ、水汲みと休む暇は無く、その合間に親方や先輩たちの仕事を覚えていく「鍛冶は見て技術を覚える」の生活でした。
真っ赤に熱した玉鋼を小槌(親方)大槌(兄弟子)で交互に打ち鍛えるさまに目を走らせる。仕事場は薄暗い。暗くしているのは、焼き入れの火の色を見るため。温度は鉄の焼けた色で見る。鍛冶は経験と勘が頼りで、焼き入れには全神経を使うという。
昔の「火床」には松炭が使われ、宇土半島や天草から船で船着場に運ばれて来ていました。炭には大小あるので、大きい物を割って粒揃えをする「炭割り」という仕事もありました。
しかし、燃料は明治二十七(一八九四)年、鉄道が敷かれると、より熱量の高い石炭を使うようになります。河尻神宮前にあった葦原商店が三池の石炭を貨車で注文し、駅から馬車に積替え配達していたといいます。
西 輝喜