26号 2011年(平成23年)10月20日
川尻公会堂創立八十周年によせて
その三 吉村彦太郎
アサは実家と吉村家の空気の違いに戸惑った。実家は三角築港が完成した明治二十年頃から廻船の仕事が減り始め、二十七年の鉄道開通後、仕事は激減して家は沈んだ雰囲気だった。しかし、吉村家は活気に満ちていた。日頃、蔵の方から威勢の良い掛け声やもろみの甘酸っぱい香りが漂ってくる。女人禁制の蔵の方には行けないが、一年で最も寒い時期には「寒仕込み」が行われ、蔵人は夜でも働いています。
夕刻、遮廻(あしまわり)の吉蔵が彦太郎に「お風邪の具合は如何ですか。今夜は寒九の水汲みですから早めに帰らせてもらいます」と告げた。
「酒は米・麹・水が命」という。吉村家では洗米とか雑用水は井戸水だが、仕込み用水は緑川の水を使う。その水汲みは九州山地から流れ来る水が最も清浄な朝三時頃で、柄杓で二つの大桶に汲み入れる骨の折れる仕事です。櫓や竿を使って緑川を舟で遡上し、加勢川との合流点より上流の水を汲まねばならないのでした。
柱時計の振り子が五時を告げた。アサは夫の寝息を確かめると、そっと起き上がり正中島橋へと急いだ。夫に代わって、吉蔵たちの乗った数艘の舟を出迎えるためだ。荷揚げ場にはまだ誰もいない。大渡橋下は急流でしかも橋杭も多く、一番の難所と聞いている。そこに祀ってある舟神様に無事の通過を祈っていると、桶を運ぶ荷車を曳いた蔵子たちが集まって来た。杜氏の古賀寿八の顔も見える。
帰ってきた吉蔵はアサに「旦那様へ」と瓶を差し出す。寒九に汲む水は服薬に用いても特効があると伝えられていたのです。この「アサの出迎え」は蔵子たちに知れ渡り、アサは蔵子たちの信頼を一気に得ました。
彦太郎の仕事は弟和七と妻アサの支えによって順調に伸び続け、銘酒瑞鷹酒造の基礎を築き上げます。そして、熊本県酒造組合評議員、酒造研究所相談員として酒造界の向上にも取り組みます。
そんな中、彦太郎は瑞鷹の今日があるのは地域の支援あってのことと、大正七年川尻小学校運動場拡張のための土地一反九歩を寄贈、その上小学校の建築
費・備費等々に多額の寄付をしました。
ところで、川尻町商工会は明治四十三年、町役場内に事務所を設け、伝統産業の振興、販路開拓のための共進会、講習会等を企画、会場は浦島劇場や小学校の教室を借りて行っていました。このことをとても気に掛けていた彦太郎は、昭和五年病の床に臥し「町のための公会堂建設」を遺言して長逝した。(享年六十二歳)
感動した町の人々はこの彦太郎の遺徳を永久に伝えるため、公会堂の敷地内に懐徳碑を建立しました。その碑文に『富は屋(おく)を潤し、徳は身を潤す』とあります。まさに至言です。
共進会は公会堂の使用を契機に更に販売が続伸し、工芸のまち川尻の声価を高めたことはいうまでもありません。
西 輝喜