2017年(平成29年)9月20日 「かわしり遍路」3

 

珍木の至宝があるお寺 

 JR川尻駅前交差点から南側一帯(岡町)のバス通りには、川尻町の代名詞とされる「川尻刃物」の鍛冶屋さんが軒を連ねている。室町時代に薩摩(現、鹿児島県)の刀工、波(なみの)平(ひら)行安(ゆきやす)に始まったという「川尻刃物」を今も受け継いでいる林昭三刃物店のあるところが、東嶺山(とうれいさん)西教寺(さいきょうじ)(川尻一丁目三―七)です。

 

 バス通りに面する山門、そして蔦(つた)の巻いた石塀は、古の歴史を物語る風格を漂わせ、茶褐色の石塀は一際目立ちます。加勢川に架かる橋に使用してあったという大きな「馬門(まかど)石(いし)」(*1)が用いられているからでしょうか。

 

 広い境内を持つ浄土真宗本願寺派の西教寺は、寛永四(1627)年、慶讃(けいさん)の開基とされ阿弥陀如来を本尊としていますが、先の熊本地震で本堂などが大きく損壊しました。十五世の西岡彰(あきら)住職は、「寛永六(1629)年に建立後、3回の立て直しをしたという歴史ある本堂や庫裡を、長い間、風雪に耐え抜いた具材を再利用して、再建したい」と話しています。

 

 本堂の裏手に廻ると高さ一〇メートルにもなろうと思われる大きな樹木がそびえています。西教寺の至宝とされる珍木です。樹木を下から見上げると「赤い花を咲かせるヤマツバキの木と初夏に白い花をつけるチシャノキ」の葉が混在しています。視線を根元の方に移すと、なんとチシャノキツバキの木が抱きついています。東南アジアに広く分布するチシャノキとサザンカで知られるヤマツバキがお互いに支えあい、共に生き抜いているのでしょう。住職は「相補(あいおぎな)って生き抜くことこそ人々の本来の姿であり、この樹木はそれを教えています」と語る。

 

 ところで、西教寺は明治時代に一時途絶えています。この時、大渡(おおわたり)の西楽寺(さいらくじ)(川尻六丁目四―一)より新しく住職をお迎えします。清(せい)章(しょう)和尚です。西教寺の十三世住職となった清章和尚は、第二次世界大戦の末期の昭和十九年から終戦後まで、沖縄県から疎開(*2)して来た人々を受け入れています。沖縄県立水産高校の元校長一家ら5、6家族を受け入れ、本堂は足の踏み場がない程だったと言います。

 

 川尻校区老人倶楽部「楽寿会」は、昭和三十九年に発足しました。高塩岩太郎、後藤八郎、西岡静枝の各氏が発起人になり、戦時中の困窮期と戦後の荒廃期を乗り越えたお年寄りたちの文化・情報交流の場づくりに奔走します。発足時の会員は、81人(現在、280人)で、毎月西教寺で交流会が開かれたそうです。発起人の西岡静枝さんこそ、西教寺の清章住職夫人だったのです。

 

 私は、学び舎を巣立つ生徒たちに餞(はなむけ)の言葉として、「蓬生麻中 不扶而直」(*3)と書いた漢詩を贈りました。その漢詩は、西教寺の至宝が教えている「相補って生き抜く」というものと似通うところがあるかも知れませんが、「川尻の至る処で、助け合いの心が脈々と受け継がれている」と感じられずにはおられません。

 

*(1)馬門石 阿蘇山の噴火で発生した火砕流の堆積物が凝灰岩となったもので、赤味がかった色をしており、阿蘇ピンク石とも言われる。馬門石は、柔らかくて加工し易いため石材として利用され、小路の「高札橋跡」(川尻一丁目)の碑石にも使われている。

 

*(2)沖縄県民の疎開 第二次大戦で沖縄が戦場となることが予想された昭和19年、沖縄本島の60歳以上のお年寄りと15歳以下の児童合わせて約6万人が、熊本、宮崎、大分、佐賀の四県に、また宮古・八重山諸島の2万人が台湾に集団疎開した。なお、この疎開で九州へ向かう疎開船「対馬丸」が、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、児童を含む1,400余人の方々が亡くなった。

 

*(3)蓬生麻中 不扶而直 茎の弱々しいヨモギも、天に向かって伸びるアサの中に育つと真っ直ぐに伸びる。転じて、友人に恵まれると「切磋琢磨」して大きく成長するとの意。

 

荒金 錬一

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。