23号 2011年(平成23年)6月20日

 

国指定史跡 外城御蔵

その二

年貢の上納は毎年十二月二十日限りでした。蔵納の日程はあらかじめ、惣庄屋から庄屋へ通達され、庄屋は各頭(かしら)百姓へ、五人組へと連絡されました。

納入が完了するまで、村には米商人の立ち入り禁止、祭り・祝儀・家の新築などと行ってはならないきまりがありました。

蔵納には農民の一年間の生活の全てがかかっていたのです。村々では、籾摺(もみすり)・俵拵(たわらこしらえ)・作番(さくばん)の雇い入れ・夜業(よなべ)の規則を定めて万全を期します。手永ごとに在御家人の内から任命された抜米(ぬけまい)見しめ役が絶えず見回り、密売買、小作料・借米の取立てなどの取締まりに当たりました。

庄屋は各農家の俵数と納入の日を惣庄屋に報告。拵えた俵には差札(さしふだ)(墨汁で払主の名、住所を書いた長さ十四センチ・幅二センチ位の木札)を俵の中と上皮に付け、払主(ばらいぬし)の内から払頭(がしら)を立て、箕(み)・しょうけ・用心米(ようじんまい)を用意します。

また、払主たちは晴雨に関わらず荷筵(にむしろ)を一枚ずつ持参するのです。

年貢は緑川筋の村々は舟で、他の村々は人馬で川尻御蔵の場内(にわうち)に運び入れ、払頭は村庄屋の作った「送(おくり)」を増横目役(ましよこめやく)に差し出します。

米を受取る側には、根取(取米を定める)、横目(監視)、さし子(米穀審査員)という役人がいて、その下に仲仕(荷物を運ぶ役)二十五人がいました。

常任の仲仕数人は絶えず御蔵の中に居るが、急に全ての仲仕を必要とする時は、法螺貝を鳴らして召集します。杉島・御船手に分散在住中の仲仕は、直ぐ御蔵に駈付けていました。この御蔵仲仕には不文律の株があって、容易にはなれなかったといいます。

さて、増横目役は「送」によって払主、俵数、差札などを調べ、さし子は一俵ごとに竹の当たりさしを入れ、一俵毎に少量の米を取り出して検査を行いました。砕(くだけ)、籾等の交りの有無を調べ、該当する俵には黒印を打って払頭に戻しました。払頭はその俵について、払主に繰直し、または用心米による補充を命じ再検を受けました。

さし子の手を通った俵は秤で重量をはかり、軽俵(かるひょう)(重量不足)は桝目(容量)不足補わせ、通俵(とおりひょう)(合格)としました。

さし子が調べた米は「しょうけ」に入れるが、検査は一日何百回も行うためその米は何石も貯まり、その一割が斤量を受け持つ仲仕頭に与えられていました。役得です。

御蔵の外の広場に山床(やまどこ)という場所があり、御蔵に入りきらない米を露天積みするところです。千俵払いなどという日は大変な混雑でした。米を蔵に入れる。或いは山床に積む。それは仲仕の仕事でした。

山床は湿気を防ぐため上部に一寸(三、〇三センチ)位の石を一尺(十寸)余りの厚さに敷き詰め、その下に一尺ほどの砂、さらにその下に栗石(栗の実位の小石)が一尺ほど敷き詰めてありました。

米俵の山は「四十一俵止め」といって、ピラミッド式に積み重ね、最上部は一俵にするのです。仲仕は「てっぺんからお城が見える」と言って、見物の人たちを羨ましがらせていたといいます。

山間部の人たちは泊まりがけで上納に来ていて、毎年地蔵町(六町内)の定宿に泊まっていました。

なお、検査は年貢米だけでなく、納める俵装も同様です。俵は同一人で拵えたものだけではないため、ハネの出るものもあり、取替えを要求されることもありました。

首尾よく納めが住んで帰る時、道中は「村はこれでお祝いだ」と音頭、旗立てて喜び勇んで帰っていたそうです。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。