21号 2011年(平成23年)2月20日

 

御蔵前船着場

その三

「川尻町史」末尾の「写真図版補遺」に「三角往還に架せる下町橋」(明治二十七年頃)の写真があります。

明治になると蒸気船の時代を迎え、船は大型化します。川港では水の深さが足りません。時の富岡県令は熊本の貿易振興のために水深があり、地形もよく、人家もないところに、明治十七年から巨額の費用と四年の歳月をかけ七三○メートルの石積埠頭を造りました。二千トン級の船が出入りできる今の三角西港です。

その頃、川尻の港では商い船や遠く乾塩魚を運んできいていた北前船の姿はほとんど見掛けなくなっていましたが、外輪船(九州商船経営の外に輪がある蒸気船)志水丸だけが毎日通って、三角・島原付近との交易は続いていました。また、廻船問屋塩飽屋汲水(通称日の丸)には、大阪方面から来る船舶が時折碇泊していた程度の寂れようでした。

緑川・加勢川・熊本への内陸水路という水の道を巧に利用し、熊本平野の経済、交通の要衝の地として栄えていた川尻は次第に貿易港としての地位を失っていきます。

川の港から海の港への時代が始まったものの、その海の港へ行く道がない。熊本県は川尻町岡町の西側、今のコープ食品の敷地から瑞鷹の東肥蔵、川尻公会堂、下町恵比寿へと道をつくり、そこに橋を架け、杉島、今の鉄道線路の西側へと道をつくり、富合、宇土へと通す計画でした。

ところが川尻停車場(駅)ができ、汽車が川尻へ来たのが明治二十七年八月十七日、宇土駅は二十八年、三角線が明治三十二年十二月の開通でした。

折角作った三角往還橋はちょっとの間だけの使用となりました。その名残りの船着場東端の石柱橋脚。干潮の時に点々と姿を現す橋杙が当時の慌しかった世相を伝えています。

さて、三角西港はオランダ人ムルドルの設計によってできた切り石積みの見事な埠頭です。しかし、その完成には、付近の急峻な岩山を削り、海を埋めるという命がけの難工事でした。その危険な工事に熊本監獄の囚人たちが使役されたのです。工事中に命を落とした囚人六十九人の墓が天草に渡る一号橋手前坂道の左側の奥にあります。この墓は解脱墓と呼ばれています。解脱とは煩悩(ぼんのう)の束縛から解放された人のことで仏となることを指しています。悲しい歴史です。この方々のご冥福を心からお祈りいたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。