20号 2010年(平成22年)11月20日

御蔵前船着場

その二  (長さ十四センチ、幅二センチの木簡が建築年代を語る)

平成二十一年五月末、解体修復中の石積み護岸船着場、通称「殿様ガンギ」下流部の根石と根石の間から米の荷札らしい木簡(もっかん)の発見を知りました。水の中だから木簡の腐蝕はありません。木簡の両面に墨書で「一米三斗入」「矢部之内柚口組」とあります。

「熊本県の地名」―平凡社―で調べると口の字は木で、木簡は柚木(ゆのき)村の年貢米荷札と思われました。加藤家支配時代は郷組制で矢部郷(現山都町)柚木組、細川藩時代は手永制なので矢部手永柚木村となります。

米一俵は当時、大俵(だいのひょう)三斗五升。小俵(しょうのひょう)三斗二升。山村からは輸送の関係で三斗俵と区分けされていました。なお、木簡と一緒に出土した中国青磁の破片の年代とも合致しているとのことでした。

さて、加藤家支配の四十四年間のうち益城(矢部)は慶長五(一六○○)年十一月からで、それ以前は小西領でした。とすれば、護岸船着場は加藤清正公治世の二十三年間のうちの築造と考えられますが、加藤家二代忠広(治世二十一年)の工事とは到底考えられません。

清正公の無二の忠臣、飯田覚兵衛は豪勇無双の士であり、土木や築城の名手でしたので工事の殆どの推進役を務めていました。しかし、清正公が亡くなると、忠広を見限り、お暇乞いをして浪人となり、熊本を去っています。

:仮説:

おこがましい考えですが、私なりの仮説を申しますと、築堤工事は当然のことながら完全な水止めで行われています。加藤家時代の船着場築造工事も「流水を塞き止めてから」と考えると、慶長八(一六○三)年、普請奉行の飯田覚兵衛が手代の横手五郎などを指図し、緑川放水路として、川尻への曲流部より小岩瀬までの長さ一五○○メートル、川幅一三○メートルの堀川掘削工事をしてドンド石畳を築きました。その工事に平行して川尻への水を塞き止め、御蔵前船着場を築造したと考察いたします。

西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。