えびすの つぶやき

2010年(平成22年)8月5日
開懐世利(かわせり)


開懐世利とは? 川尻は、明の時代に出版された「図書編」の中に「開懐世利」の名稱で紹介されています。 これは中国の明の地理学者、鄭若曽が日本の永禄四(一五六一)年に出版した「日本図纂」に開懐世利(川尻)・高瀬・八代・宇土・天草などと記されているからです。 少し堅苦しいですが辛抱して読んで下さい。鄭若曽は「朝鮮通信使」の一員として来日しました。朝鮮通信使とは日本と朝鮮の友好使節団で、通常、日本の将軍が替わる度に来日しています。一行は、総勢三百人から五百人にものぼり、中には学者・画家・医師などもいました。 この通信使は、記録として日本図纂を書いています。予め日本の有名な国と港の場所を知っておくため、略図を書き、記入していたのです。
当時、朝鮮との正式貿易を行うには朝鮮国から図書を授かることが必要でした(授図書の制)。図書とは貿易を希望する人の名前を刻んだ銅製印のこと、つまり朝鮮国との「貿易許可申請印」です。 貿易を行う際には、対馬の宗氏から朝鮮国への書簡(間違いないという証明書)を書いてもらい、その書簡に授かった印を捺したものを持参することになっていたのです。
朝鮮や中国との貿易は利益が大きいので、多くの西日本の国々が、その利権を得ようと競い合っていました。また、正式な貿易希望国と、海賊行為をはたらいている倭寇とを区別するためにも、こんな面倒な決まりを作ったのでしょう。
河尻氏もこの貿易に参加していたことにほぼ間違いないと思いますが、今残っている記録では、文明二(一四七〇)年、菊池為邦(菊池氏二十代)が図書を授けられています。申請要項は、肥後国の守護で、二千の兵を擁していると記してあります。 河尻実昭は、菊池兼朝(菊池氏十八代)に亡ぼされますので、この時はすでに河尻氏は滅亡していました。 ちなみに八代では、当時の城主名和氏が文明九(一四七七)年から明応二(一四九二)まで毎年のように朝鮮へ船を出しています。 次の城主相良氏は天文八(一五三九)年、渡唐船市木丸を建造して、翌年琉球と通商しています。また、弘治元(一五五五)年四月八日に、八代徳淵港を出発した渡唐船十八艘が嵐で吹散らされた惨状の記録も残っています。 さて、高瀬津の積み出し荷は、主に武具や銀細工で、朝鮮からの輸入品は、繭糸や麻などでした。貿易港に指定された朝鮮の都市、三浦地域(斉浦・釜山浦・塩浦)に行く高瀬氏(菊池氏の一族)の船数は年間五十隻と定められていましたが、十五世紀後半には四百隻ほどにも膨れ上がり、貿易に従事する日本人居留民と現地の人々との紛争が起きます。困った朝鮮では、居留日本人の活動を抑制する政策をとったため、日朝戦が起きました。結果は居留民の敗北となり日朝貿易は途絶しました。しかし、貿易で得る利益が忘れられず、二年後には再開されますが、日本人の居留は禁止されたままでした。 その後、菊池氏の滅亡により、高瀬氏も衰退し、さらに豊臣秀吉の天下統一により西国領主たちの日朝貿易・日唐貿易は終わりました。 古代から近世までの長い期間、肥後屈指の水の道の起点として活躍し、また近隣諸国には貿易港、開懐世利の津と呼ばれ親しまれた川尻です。この呼び名も遺産として大切にしたいものです。

川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。