えびすの つぶやき

2010年(平成22年)3月20日
~川尻小学校~
その二
川尻鎮撫隊本営址
戦禍から川尻を救った奉行
上田 休(やすみ)


ある日、官軍方に付いている旧藩士から休のもとに密書が届いた。「榊原伍長を斥候として川尻に出したが捕われたらしい。助けて頂けないか」とあった。休は一瞬ためらったが薩軍の基地に出向くと、一人の若者が立木に括り付けられていた。休は咄嗟に「この人は鎮撫隊の者です」と告げ身柄を引き取った。 八代の者だという榊原庄一に印鑑(鎮撫隊員の証明書)を与えて帰隊を諭した。然るに榊原は印鑑を得たので、再び薩軍基地に潜入してまたもや捕えられた。上田は詫び榊原庄一を深く戒め、帰隊を約せしめて還したが、榊原は尚帰隊せず三度薩軍に捕えられた。薩軍は間諜の嫌疑を益々深くして、「鎮撫隊は中立ではない、上田は敵とすべし」と決定したという。
若し休が榊原庄一を斬らなければ、川尻鎮撫隊は薩軍の攻撃を受ける。上田の目的は川尻地方の治安維持である。已む無く休は、長男の勤をして薩軍に請い、之を斬らしめた。
四月十一日、川尻町は官軍に包囲されつつあるとの噂が飛び交い始めると、休は町民にかねての手筈どおり避難を指示した。 翌四月十二日、南の宇土方面から進撃してきた官軍は川尻総攻撃を準備しているらしく、富合側の緑川土手では、点々と炊煙が立ち上り、人影も見える。試し撃ちにか砲弾を打ち込んできた。 休は殺気立った薩軍基地に隊長を訪ね、川尻町での戦闘の無益さを説き、早急に川尻を立ち退き薩軍本隊と合流するように勧め、その日のうちに門下生を率いて半田村へ退いた。 薩軍が熊本から去って平和は、を取り戻した五月五日、休は突然山崎町に政府が設けた臨時裁判所から呼び出しを受け、出頭すると調べも受けずに獄舎に収容された。獄中、一回の尋問、裁判もなく、家族との面会も許されず、紙、筆の所持さえ禁じられた。うす暗く、狭苦しい牢獄で呻吟する休は「何故こんな処置をするか」と日夜気も狂わんばかりに繰り返すのみであった。脳裏に浮かぶのは榊原庄一斬殺であったが、このことは四月十三日に川尻へ進駐した山田少将を訪ねて榊原斬殺のいきさつを報告し、賞賛を受けている。自分の行動に何ら疾しいことはない。 悶々とした日々を送るうちに、この気持ちを家族に伝えたいが紙も筆もない。休は窮余の策として、日頃使用していた箸の漆を噛み砕いて溶かし、こよりを解き開いた小紙片に爪楊枝を噛み柔らかくして認めた辞世の歌 「みだれ世に   みだれぬものは 白糸の   ただひとすじの                誠ならまし」 明治十年九月三十日、賊名を蒙って休は斬首された。享年四十八歳。惜しむべき人傑は幽界の人となった。 事前に東京にて上田が処刑されるらしい噂を耳にされた前藩主、前知事の細川韶邦公は、すぐに上田休助命嘆願の使者を熊本へ派遣したが、その着熊を待たず、また妻子にも告げずに斬られたという。 休の斬罪を悼んだ川尻町民を始め、各村々の有志は献金により、明治二十二年、休が眠る飽田郡横手村高麗門(現熊本市横手町)の禅定寺境内左手にその徳を偲んで大頌徳碑を建立し、休の功績を讃え冥福を祈った。 直系の御子孫、上田四郎さんは千葉県に、その娘、香さんはスウェーデンに在住されている。




川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。