えびすの つぶやき

2010年(平成22年)1月20日
~川尻小学校~
その二
川尻鎮撫隊本営址
戦禍から川尻を救った奉行
上田 休(やすみ)

上田久兵衛は天保元年(一八三○)熊本城下の山崎天神小路(現在の熊本放送本社付近)の上田源十郎(禄高二○○石)の嫡子として生まれた。九歳で藩校、時習館に入り四回も藩主から賞詞を受けるなど英才の誉れが高かった。 元治元年(一八六四)七月、京都留守居役(肥後藩の代表)を命じられ、足高(役職手当)五百石を与えられた。 ペリー来航(一八五三)以来弱体化した幕府は、公武合体策で政権の安泰を図るなか、文久三年(一八六三)、幕府側の薩摩、桑名等の諸藩は尊王派の長州藩と改革派公卿らを京都から追放した。「文久の政変」、「七卿の都落ち」と言われる事件である。その処置に不満をもった長州藩は翌元治元年(一八六四)七月大挙して都に入り、皇居を守護する薩摩、会津、桑名藩と戦端を開き、長州藩方は終に朝敵として追討された。「禁門の変」とか「蛤御門の変」とか呼ばれている。 上田久兵衛が京都留守居役として上洛したのは、その直後の混沌とした八月一日であった。細川藩は幕府と親しく、公武合体派であった。久兵衛は殺伐とした雰囲気のなか、幕府と朝廷の斡旋に奔走した。久兵衛の誠意は双方から認められ、公武一和の実をあげ、細川藩の一家臣でありながら、朝廷・幕府から相談を受けるほどの信頼を得るに至った。 その久兵衛に慶応元年(一八六五)十一月帰国の命が届き、朝廷・幕府要人たちに惜しまれつつ師走の二十日に帰藩すると直ちに川尻町奉行に任じられた。足高は三百石だった。 川尻町奉行は二年餘の期間であったが、その采配に町民は全幅の信頼を抱いた。着任すると「上田自身に不善があったら遠慮なく申し出よ。他人の不善はみだりに口外するな。賞罰に不公平あれば申し出よ。良民に害をなすような悪人は決して許さない。老人、貧しい人々に心配りをしてくれれば、川尻の町はますます繁栄するであろう」と訓示している。 当時、川尻の町は洪水や加勢川堤防の決壊に悩まされていた。現在の石積み堤防が出来たのは泰養寺前下流が明治二十四年、上流は大正三年である。久兵衛は大雨になれば町奉行所(現在の古城神社からその奥一帯)前に高張提灯を立てて町民の通報に備え、自らは川筋の警戒の任に当たるなど率先して町の安全に力を尽くした。また、時折町に出て貧しい身なりの人やお年寄りに出会うと、手ぬぐいを配っていたとの逸話もあるほど、町民を大切にした人で、名奉行として慕われていた。 久兵衛は川尻町最後の奉行を経て慶応四年(明治元年二月)藩の奉行副役になるなど学校党の重鎮として活躍を続けた。明治二年六月、十一代藩主細川韶邦(慶順)は藩知事に任命され、翌年代わって弟の護久が知事になると、藩政は学校党から実学党へと一気に変わっていった。 野に下った久兵衛は名を休と改め、上田家の旧知行地、飽田郡半田村(城山半田町)に塾を開き、軍学や論語に時勢などを加えて教えていた。その噂を聞いた人たちが熊本藩だけでなく、九州各地、遠くは尾張の国からも入塾したと伝えられるほどの盛況であった。




川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。