えびすの つぶやき

2009年(平成21年)12月20日
~県下に誇れる   川尻小学校~
その一
校訓塔


一昨年、東京の知人から「落合東郭の校訓塔は、まだあるだろうか」との問い合わせに、まさかと驚いた。落合東郭は有名な大正、昭和初期の漢詩人だったからである。
たしか校門を入るとすぐ左手に、蔦かずらに捲き込まれた塔があった。あれだと見当をつけ、山本校長(現、出水小校長)に問い合わせた。手に負えない学校側は川尻青年協議会(福山龍太郎会長)の協力を得て、蔦かずらの除去をなされた。
塔は全容を現した。大きな石柱塔には健康、礼譲、勤労、協和、克己の五つの目標を記し、下段に「進学ニ当リ東郭先生ニ書ヲ乞ヒ校訓塔ヲ建立シ、実践ヲ碑面ニ誓フト共ニ、謝恩ノ記念トナス」昭和十四年建立。校長、教頭、担任四名の氏名と、進学した二十四名の人が母校の優れた訓育に感謝して、記念に校訓塔を寄贈したのである。私はその方々の純粋な謝恩と学校愛に感動したのである。さらに、その心を汲み、郷土の偉人に揮亳を依頼された当時の先生方に心から敬意を抱いた。
落合東郭(東郭は号)は慶応二年(一八六六)託麻郡大江村(現熊本市大江)に生まれた。東京帝国大(現東京大学)卒業後、旧制七高(現鹿児島大学)、旧制五高(現熊本大学)の教授を経て宮内省に入り、大正天皇の侍従(天皇を補佐する側近)を務めた人である。なお、明治天皇の侍講(天皇や皇太子に講義する役)を務め、教育勅語の起草、発布に当たった元田永孚の外孫に当たる方である。
また、この塔の横に標石があり、経線(子午線)は東経一三○度四○分。緯線は北緯三二度四五分と地球上での川尻小の位置が標され、学習環境の整った県下に誇れる小学校である。 ちなみに現在の校訓は現代的な自主・礼儀・奉仕の三つで、児童や保護者、地域の人たちにすぐ目に付くよう、校門正面の二階廊下に大きく掲げられている。




川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。