えびすの つぶやき

2009年(平成21年)11月20日
~先進的大名 その三~
鍋島直正(閑叟)

幕末、佐賀藩ほど近代化された藩はなかった。軍隊の制度も兵器もほとんど西欧の一流国並みだったという。
鉄砲と言えば火縄銃のことだと思われていた頃、佐賀の銃器工場では雷管式のゲーベル銃を製造していた。後進藩が「装備は洋式銃」と気付き始めた頃、佐賀藩はその銃を他藩に売って、当時世界で最も新鋭な後装式の単発銃を買い入れていた。
鍋島閑叟は「葉隠」という独特の哲学を持った佐賀藩の殿様だが、そういう観念よりむしろ近代工業を信じ、藩国家をヨーロッパの一流国並みの軍事国家に仕立てて行く以外は、何も考えていなかった。
嘉永二年(一八四九)日本最初の製鉄所を造り、洋式銃器の製造を始め、安政年間には造船産業を興して国産の蒸気軍艦製造に乗り出している。これらの産業開発のために藩の秀才を選抜して英語、数学、物理、機械学を学ばせ、極端な勉学を強いた。閑叟は秀才たちに「勉学は合戦と思え」と訓示した。
ところで佐賀藩には地の利があった。代々幕命によって長崎警備を担当していたので長崎からさまざまな国際知識を吸収することが出来たのだった。
筑後川の河口にある三重津の藩海軍所港内には、厳重な入領禁止がしかれている。そこに改良されたアームストロング砲を積んだ英国船が入港した。積荷が降ろされ、大砲倉庫に運び込まれた時、閑叟は藩の西欧機械関係者たち六十騎を連ねて検分に来た。
アームストロングの砲身は鋼鉄だけに、それまでの青銅砲や鋳鉄砲とはまるで違う。閑叟は藩士たちに「これが作れるか」と問うたが、このような強靭な砲身をどのようにして作るのか藩士たちは検当もつかない。
その日から藩士たちの研究が始まった。「これをやらねば、佐賀藩は列強に立ち遅れる」閑叟は超人的な努力を強いた。元治元年(一八六四)の暮れ、精煉できる特殊な炉がないため主任藩士は万策尽きて発狂した。
慶応元年(一八六五)の夏、他の洋学研究者によって炉が完成、翌慶応二年の春、最初の試作品二門が出来た。長崎から駆け付けたイギリス人の兵器商人は、驚いて「英仏以外にこれを造れる国はない」と言ったという。
慶応四年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いで薩長が幕軍を敗走させた後、強い出陣要請を受けていた閑叟は、やっと重い腰を上げた。薩長としては、京を抑えたとはいえ、日本最大の洋式軍隊を持つ肥前佐賀藩を味方に引き入れなければ、徳川勢力を潰すことは難しいからだ。佐賀藩は蒸気軍艦「孟春」に歩兵を乗せ三重津港を出港させた。
江戸開城後、旧幕臣を中心に彰義隊三千人が上野寛永寺に立てこもって抵抗した。旧幕軍はフランス製山砲七門を持ち、上野の山を城塞化していた。これを包囲せん滅するには十倍の兵力が要るのに官軍の兵力は二千人。その上、江戸は灰燼に帰す。佐賀藩は本郷台に陣をとり、アームストロング砲を加賀屋敷に据えた。五月十五日、上野へ進む官軍の兵が見える。彰義隊を市中に散らさないよう一瞬のもとに粉砕せねばと点火した。尖頭弾は吉祥閣に命中し吹っ飛んだ。彰義隊はせん滅し、戦いはうそのように終結したのだ。
会津藩鶴ヶ城の攻防戦においても、アームストロング砲が切り札の役割を果たしたことを思えば、どこかに「葉隠精神」に通じるものを感じる。



川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。