えびすの つぶやき

2009年(平成21年)10月20日
~先進的大名 その二~
*川尻に宿泊した島津斉彬

斉彬の没後、藩政の実権を握ったのは国父久光(斉彬の弟、藩主忠義の父)でした。久光は「藩兵を率いて上京し、勅命を得て幕政改革を断行する」という兄斉彬が果たせなかったシナリオを自ら実行しようとしたのです。 文久二年(一八六二)三月十六日、兵一千人を率いた久光は上洛の途につく。行列には野戦砲四門、小銃百丁を荷造りして、普通の荷物に見せかけて運んでいる。
同行した大久保利通の日記。
注.*印は注釈、( )は現代の時刻
三月二十二日 雨
今日六ツ半(六時)八代 *八代出発 二里
種子山御小休
小川 御休                 一里拾丁
豊福村御立場 *休息          一里拾丁
古保里御立場 *休息          一里
川尻 御泊
右之通諸所御休二而日入前御着
一、今晩五ツ過肥後藩河上彦斎、青木入来。是非逢度と之事候得共供頭へ御逢可被給申入不逢候事。
*右の通り諸所お休みにて日の入る前にお着き。今晩五ツ(八時)過ぎ、肥後藩河上彦斎(げんさい)、青木がきて、是非会いたいとの事であったが、久光は供頭へ会うよう伝え会わなかった。*宿泊所は現在の瑞鷹酒造内で、小路町に本陣跡の標柱がある。その標柱の南東一帯が当時の待賓館で、藩主やその一族の宿泊場所でした。記録はありませんが、一千人もの集団、小路町の混雑ぶりが目に浮かんできます。訪ねた肥後藩の河上彦斎は、通称人切り彦斎と呼ばれる血気盛んな勤王志士で、同志の御船手出身の青木保弘とともに「討幕のため島津久光が出兵する」と勘違いして、同行の懇願に来たのですが、勿論久光が許可する筈はない。供頭は拒絶している。他の藩でも同様なことがあったようです。
三月三日晴
御目覚七ツ半(四時)   *松明を使わないよう朝は薄明かりに出発
川尻 六ツ半(六時)御立 夕方は早く宿に着くのが慣例でした。
一里半余 熊本入口御小休 *迎町の薩摩屋敷
御馬下村 御立場       *角小屋
植木 御休
木之葉御小休
高瀬着七ツ時(四時頃) *宿泊は菊池川の畔にあった熊本藩の御茶屋
*鹿児島を立ってから十六日目、一行は下関で船に乗り海路京都を目指した。久光上洛の報は広く知れ渡り、尊王攘夷を唱える浪士たちは、京都に結集する。彼らも噂で久光は倒幕の挙兵だと思い込んでいたのです。 四月二十三日 薩摩の勤王派は伏見の船宿・寺田屋に集まっていた。久光は最後の説得(解散の命令)に腕利きの八名を送り込んだ。使者の必死の説得、話し合いにも勤王派は応じず、結果は上意討ち。必殺示現流(じげんりゅう)同志で切り合う大惨事となり、命を落としたのは勤王派の有馬新八ら十名だった。 寺田屋騒動は朝廷の久光に対する信用を一気に高め、久光は望み通りの勅使の警護役として、朝廷の権威を背に江戸に赴き幕政改革の要求を貫いた。帰途(文久二年八月二十一日)生麦(現横浜市鶴見区)で大事件を引き起こし、これが翌年七月の薩英戦争の原因となった。しかし、これらの事件も煎じ詰めれば明治維新を早める結果となったのです。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。