えびすの つぶやき

2009年(平成21年)7月20日


~船の魅力その三~


当代随一の国際通、勝海舟の「ものの見方」に接した坂本竜馬は、その説に心酔し、己の道が開けた感動に駆られていました。 竜馬の率直な人柄を愛した勝は、新しく開いた神戸海軍操練所の塾頭を任せます。ところが元治(げんじ)元年(一八六四)の池田屋事件と禁門の変(蛤御門の変)に、操練所の塾生が加わっていたことが発覚し、勝は幕府に咎められ失脚、操練所も閉鎖されました。 この時、行き場を失った竜馬ら塾生三十名を勝が託した相手が薩摩藩の若き家老、小松帯刀(たてわき)でした。元治元年の暮れ、大坂薩摩藩邸で帯刀と竜馬の運命的な出会いとなったのです。共に「無私の精神」で新しい日本の実現に奔走した帯刀と竜馬。これが回天の大事業の切っ掛けでした。

帯刀は長崎に彼らを連れて行き、長崎の豪商、小曽根家の援助を得て亀山社中を結成します。後の海援隊(貿易商社)の誕生でした。

帯刀と竜馬は日本のあるべき姿について語り合うようになります。主義主張が異なり、犬猿の仲である薩摩と長州が手を携えれば、幕府と正面切って対峙できる。それどころか討幕も夢ではない。若い二人が考えたのは、この連帯策でした。 竜馬は動いた。慶応元年(一八六五、第二回長州征伐の年)薩摩から長州への武器転売と長州から薩摩への米の売買という水面下での取引を成功させると一気に両藩の連携を説き始めました。勿論、長州征伐は腰砕けに終わりました。 翌、慶応二年一月下旬、竜馬立会いの下、京都の小松帯刀の私邸に長州藩から桂小五郎、薩摩藩から大久保利通、西郷隆盛らが席に着き、奇跡的な薩長同盟の締結となったのです。 慶応三年十月十三日、徳川家最後の将軍慶喜は大政奉還を表明し、竜馬、帯刀が共に夢みた新生日本へ一歩を踏み出しましたが、その一と月後の十一月十五日夜、竜馬は京都の近江屋の二階で反対派に襲われ暗殺されます。享年三十三歳。また、持病の足痛で歩行も困難となっていた小松帯刀は、明治三年(一八七○)七月、三十六歳の若さで他界しました。ともども日本のため痛恨の極みです。 さて、「えびす」は七福神の一つで生業守護の福神です。長い間の鎖国で行き詰っている我が国の政治、経済の仕組みを改め、船を駆使して海外との交易を図り、国を富ます雄大な構想を練っていた勝海舟、小松帯刀、坂本竜馬こそ「えびす様」の化身だったのです。


川尻文化を考える会   代表 西 輝喜

2009年(平成21年)4月20日
~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。