45号 2015年(平成27年)7月20日

お伊勢参り その一

 「七くさに はやささやくや ぬけ参り」

              宝井(たからい)()(かく)(江戸前期・蕉門の高弟)

 親や主人、また村役人の許可なしに           伊勢参りに行くことを「抜け参り」と言います。勿論、江戸初期には禁止されていました。「せめて一生に一度はお伊勢参りをしたい」は、庶民の夢でした。お伊勢とは、(あま)(てらす)大御神をまつる内宮、豊受(とようけ)大御神をまつる外宮(げぐう)別宮(べつぐう)など125社の総称です。

 大勢が安心して旅ができるようになったのは、街道や宿場が整備された江戸時代の元禄期(一六八八~一七0四)以降です。しかし、明和二年((一七六五)に「農民の伊勢詣は、村高五00石毎に一人を認める。ただし、年貢未納者は認めない」というお達で制限されていました。

 民衆の寺社参詣は江戸時代、伊勢神宮に限らず「四国八十八カ所」など、全国の有名寺社廻りも盛んでした。寺社参詣は信仰によることは勿論ですが、圧政下に苦しんだ民衆の不満解消にもなっていたと思われます。なかでも伊勢信仰が盛んだったのは、神社側が「御師(おし)」と呼ばれる伝導者を諸国に派遣して信仰熱をあおり、道中の手配や宿泊を請け負う現在の旅行業者の役割をしていたからでしょう。

(おとこ)(なり)守寿(山都町矢部)著「郷党(ごうとう)暦代(じゅう)穂記(ほき)」に、寛延四年(一七五一)、()塩焼(たき)という御師が矢部の浜町に来て、手永会所に三泊した。その折「会所玄関に神棚を設けたところ、老若男女が群衆してお賽銭が一日に八00目も集まった」とあります。神信仰の表れです。

 このように、民衆の間に伊勢信仰が根付くと役人も神罰を怖れ「抜け参り」を黙認するようになります。しかし、伊勢への旅費は一家の生活費の一年分にも相当します。そこで村落では、地域毎に「講」でお金を積み立てて順番に伊勢に参拝する仕組みを設けました。その年の参拝者を村境まで見送り、帰着時には村境に出迎える「坂迎え」の風習も生まれました。

 川尻町でのお伊勢参りは個人の希望でできました。

 外城町の二軒に道中記が残っています。一軒は「入来屋(いりきや)」の屋号を持つ見原(みはら)家で、もう一軒は坂尾家です。二軒は親戚ですが、ここでは墨字で詳しく記述してある入来屋の道中記を紹介します。なお、藩政時代の見原家は川平田船を持ち、甲佐や御船、砥用までも包丁・農具などの鍛冶製品や日用品から塩魚等を運び、帰りには納屋(なや)(まい)や大豆、茶、などの農産物を積んで来るなど手広く商いをしていたようです。また見原家は、川尻町を支配していた町奉行所にも品物を納入していた関係で殿様と呼ばれる町奉行から入来屋の屋号を授かったとの言い伝えがあります。

さて、道中記の表紙には「天保年間 お伊勢参り道中記」と書かれています。年月日は不明ですが、天保(てんぽう)年間(一八三0~一八四四)の前半は、天災が続き全国で一揆や打ち壊しが起き、また大塩平八郎の乱に代表される騒乱が相次いだ時です。このため旅は危険でしたので、天保年間後期の伊勢参りだったろうと思われます。                                            

西 輝喜

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。