44号 2015年(平成27年)3月20日

(いかだ)流し その二

先頭の挺には「親方」と呼ばれる統率者が乗り、最後尾の挺には手練(てれん)の者が乗っていた。また、挺の先の棚は「舵取り」といい、熟練者が務め、後方の棚の者は筏が岩などにぶち当たらないように(みざお)を使うのが役目であった。

急流でカーブの箇所が多く、また浅瀬あり、突出た岩あり、大石ありの難所では、その都度先頭の筏から大声の注意が飛んでくる。その注意を後方の筏に伝えながら必死で棹を操っていく。浅瀬に乗り上げれば筏は動かなくなり、岩に衝突すれば、その衝撃で人は川に投げ出され、筏師にとって生命の危険を伴う仕事なのです。

川ヘタから岩下まで六キロメートルの難所を通過すると、流れも緩やかになり、川幅も広く水深も深くなる。岩下でしばしの休息後出発となる。ここまでは舵取りの苦労だったが、これから先は、棹で漕ぐのにまた一苦労をする。二人で力を合わせて漕ぐが、川底の石に当たると、ミザオの先が割れたり、折れたりする。(棹が折れると、そのはずみで体は水中に弾き飛ばされる)その都度、予備の棹に取り替えて漕いで行く。

川尻の町近くなると「うっ出し」と呼ばれる激しい水流の地点や「十五ソさん」と呼ばれる最大の難所が待ち構えている。

大渡橋下は橋杙(はしぐい)の幅が狭く流れが速い。ここを通称「十五ソさん」と呼ぶのは昔、冬のある日、年貢を積んだ十五隻の舟が突風に(あお)られ橋杙にぶつかり、あわやと思われる危機となったが、奇跡的に全舟乗り切ることが出来た。船頭たちはこのため、この地に祠を建て、風ん神さんを勧請して「十五ソさん」と名付け、ここでは神様に安全を祈願しながら通過するのが習慣となり、無事通り過ぎたら十五ソさんに手を合わせ、お礼を唱えていたそうです。

川尻町には正中島を主にして、川筋に八軒の製材所があった。山師と契約した製材所の貯木場に筏の着くのが八時頃で、甲佐から五時間ほどの輸送時間でした。

山師や製材所では、着いた材木の直径を計り、石数(体積)を計算して引き取ります。

甲佐の筏師たちは朝食後、川尻電車、熊延鉄道を乗り継いで帰ったが、緑川沿いに歩いて帰る者もいた。帰家は午後二時頃になっていた。砥用、矢部方面の筏師たちは川尻に泊まって翌朝帰っていたそうで、宿は正中島に筏師専用の宿泊所(簡易旅館)と旅籠「つるしま」、新町に「ひろせ」がありました。

昭和二十六(一九五一)年、九州電力甲佐発電所の塚瀬ダム(砥用町古閑)が竣工すると砥用から淀淵までの材木は営林署のトロッコを利用した輸送となり、淀淵からはトラック等で各地に運ぶようになり、川尻から筏の姿は消えてしまいました。

緑川に合流する黒谷川は、緑川左岸の矢部町と砥用町の境界をなし、その吐合に「カタ淵」と呼ぶ淵がある。近くの集落、下福良(砥用町)の聞書によれば

私の父は筏師だった。中村から雇った筏乗りが五、六人、多い時には十人位泊り込むことがあった。カタ淵で筏を組んで甲佐の淀淵まで流し日帰りしていた、川尻まで運ぶ時は、川尻のヒロセ旅館を定宿としていた。また、年に一回は川ざらえをしていたが、甲佐までトロッコ運搬が出来るようになると筏乗りの殆どがトロッコに乗るようになったという。

西 輝喜


 

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。