42号 2014年(平成26年)4月20日

草津餅の由来

川尻町史に「島津家止宿の折は必ず名産草津餅を白木の箱に入れて献上した」とある。

 世が戦国時代から江戸時代に変わると泰平の世になり、交通網も次第に整い、街道筋には人が集まる宿場町・港町等が形成された。昔の旅は、今の旅行のように快適なものではなかった。江戸初期までは、宿というのは寝泊りをするだけ。食事は自炊、部屋は殆ど相部屋で夜具は汚れて、押入れもなく、宿屋は薪を提供をするだけ。従って宿泊料は木賃として取っていたので木賃宿と呼ばれていた。後では食事を宿が出すようになったが、おいしいものを食べさせるという接待ではなく、その土地に産するものばかりだった。しかし、旅する楽しみは食べ物。世の中が進むと加工したもの、菓子や団子といった名産が各地に出来あがってきた。

川尻名産の草津餅は「草津よいとこ一度はおいでドッコイショ」の群馬県北西部の草津温泉ではなく滋賀県南部、琵琶湖東岸の草津がこの餅の誕生地です。

ここは古代から交通の要所で、近世には東海道と中山道の分岐点として宿場町で栄え賑わった所です。水津に対する陸津が草津になったとあり、地名は陸上交通で種々(くさぐさ)の物資が集散する津(港)の意味と思われます。

近江は京に近く、昔から商業活動が盛んな土地柄、近江商人として全国的に活動していました。薬草の栽培も古来より盛んで、お灸のもぐさは殆ど近江の産、製薬・売薬も富山と並んで有名な所です。泰平の世、旅人は増え「旅の必需品は薬」、需要は増すばかりです。

さて草津屋の先祖がこの地に薬種屋、餅屋を開いたのも、港町・宿場町として繁盛していた川尻が最も適当だと判断したからでしょう。いつの頃から草津餅が売られたのかは不明ですが、岡町の偏照寺に草津屋のお墓が幾つかあり、古い墓石に享保十三年(一七二八)草津屋八良兵衛と記されたのもある。享保年間は江戸中期、将軍吉宗の時代、その前から草津餅が売られていた事は確かです。

当時、川尻の本場は本町・店町・下町・外城町。中心地より街道筋が旅人も気軽に立ち寄れ、茶をすすりながら餅を賞味したものと思われます。

草津餅は珍しい位小さいのが名物で、一口で食べられるのが特徴。側の餅を薄くして、中にアンコを入れるのは特技を要した。小さくて側が薄ければ、どっかりすることもなく、一つ一つと摘まんでいるうちに、思わず沢山食べてしまうのが草津餅で、人々の出入りが多い港町の名物として大繁盛だったそうです。また、細川藩家中の武士は、馬の遠乗りで川尻に来ると、必ず草津屋へ立寄っていたと伝えられています。

明治に入ると旅人は船から汽車へと変わった。草津屋本家は家運を他に求めて餅屋をたたみ長崎へ転出することになった。しかし、餅を求める人々が多かったので、近くの村上家が餅屋を代々受継ぎ、分家が草津屋薬局を経営して菩提を守っている。

西 輝喜

 

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。