39号 2013年(平成25年)9月20日

津方会所の顕彰標木
川尻三丁目(下外城)下田精一さん方の駐車場入口に表記の標木が立ちました。
津方会所とは江戸幕府時代、熊本藩川尻町奉行所支配で、現在の税関事務に類する仕事をしていたところです。
川尻に入港する船舶は川口の番所で調べを受け、更にこの津方役人の臨検を受けて運上金を納める。出港する時は、津方の手形交付を受け、河口の川口番所の取調べを再び受ける仕組みでした。
川尻町史掲載の川尻津方運上銀覚(物資の輸出入税年平均)によれば「宝暦年中より明和、安永、天明年中まで銀百貫目余宛御座候」とあります。つまり年間銀百貫目(現在のお金に換算して二億五千万円ほど)が藩に入っていたのです。この収入は、赤字続きの肥後藩に大きな潤いとなったでしょう。
宝暦(一七五〇年代)から天明(一七八〇年代)の細川藩主は六代重賢公で、今から二百五十年ほど前のことです。しかし残念ながら、重賢公が亡くなられた以降は交易が減り、運上金は年々減少していきます。

港湾管理規則
細川藩は川尻港の繁栄に従って種々の規則を定めました。交易がスムーズに行われるための配慮です。これを「川尻町支配定式」といい、藩が川尻町奉行に命じたものです。それが、下町の「和泉屋」に保存されていました。(一九七八・四・十四、西日本新聞)
廻船問屋和泉屋を営む馬原家は川尻町内随一の資産家、有力者で町頭役など末端行政を委託されていました。
次の条文の一部は当時の川尻港の様子を推察できます。
一、河口の番人は常々油断なく通行させねばならない。
一、他国の商人が河口に出入りし、または町中に宿泊する時は、河口で宗門往来手形を確認せよ。
一、他国者が往来手形を持たない場合、領内に宿泊させてはならない。ただし、直ちに他国へ去る者は通してよい。
一、廻船が港に入る場合は、積荷内容を河口番人に報ずること。

*古文書から港湾管理規則に関する事件を拾ってみますと、昔も今も変わらぬ世情を窺い知ることができます。
「某問屋が潮合指し急いでいたので。仮手形を持って御番所へ申し断り出帆した。ところが川口御番人に咎められた。旅船は潮合がある。一時の遅れは数日の滞りにもなる。旅人は難渋する・・・」
文政十二年丑 九月二十五日   稲津 久兵衛

この古文書から「手形は遅滞なく出せ」とのお達しだったようです。
稲津久兵衛は文政十一年(一八二八)から天保元年(一八三〇)まで川尻町奉行を務めた人です。
西 輝喜2009年(平成21年)4月20日

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。