50号 2017年(平成29年)3月20日 新連載「かわしり遍路」

一隅を照らす 此れ則ち国宝なり

 

西大翁(西輝喜先生)に続いての執筆を依頼されたものの、小生は文才もさることながらこれといった識もなく、承諾したことを悔やむ日々が続いた。  

昨年の熊本地震が、数百年の時を刻み続けた十五指を超える川尻の仏閣に甚大な被害をもたらし、川尻の寺々の悲惨な状況に驚愕、私は世界文化遺産の比叡山延暦寺詣に出かけた。

眼下に古都、京都の街並みと琵琶湖を一望する比叡山は、「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と崇め詠まれていますが、織田信長による焼き討ちでも知られます。

古代より大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座するとされたこの比叡山に延暦七年(788)、(でん)(ぎょう)大師(だいし)最澄(さいちょう)上人(しょうにん)が草庵(一乗(いちじょう)止観院(しかんいん))を創建しました。そして、上人の没後の弘仁十四年(824)元号「延暦」を寺号として賜ったのです。以来、延暦寺は国家安泰と人材養成の道場となり、鎌倉時代に入ると日本仏教各宗派の禅師を輩出しました。

 比叡山まではいくつものルートがあるが、私は京都から京阪電車、叡山電車そして急勾配を上る叡山ケーブル、叡山ロープウェイと幾つもの駅を乗り降りして山頂を目指した。

 最盛期には三千余の堂塔があったと伝えられる比叡山延暦寺(現在は百五十余の堂塔)は、山の東に東塔(とうとう)、西に西塔(さいとう)、北を横川(よかわ)という三つの地区に分け、それぞれが本堂を持つ三塔と呼ばれています。

 これら三塔にある各禅師の年譜を見てみますと、天台宗の祖・伝教大師最澄(767~822)相應(そうおう)和尚(おしょう)831~913)、慈恵(じえ)大師(たいし)(912~985)、中略、浄土宗の開祖・(ほう)(ねん)上人(しょうにん)(1133~1212)、臨済宗の祖・栄西(えいさい)(ぜん)(1141~1215)、浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)(1173~1262)、曹洞宗の祖・道元(どうげん)禅師(ぜんし)(1200~1253)、日蓮宗の祖・日蓮(にちれん)上人(しょうにん)(1222~1282)等ほぼ同時期に各宗派の禅師を輩出し、日本仏教文化の隆盛期を創ったとされます。

 総本堂の根本中堂(こんぽんちゅうどう)内の壁面には、伝教大師聖訓(天台法華宗年分学生式)が記されています。「国宝とは何ものぞ 宝とは道心なり 道心ある人を名づけて国宝となす」 故に古人言う経寸十枚、是れ国宝に非ず「一隅を照らす 此れ則ち国宝なり」とあります。

「ひとり一人が思いやりの心を持って、一隅を照らす人になる。ひとり一人が相手の立場に立って考え、自分のできることを精一杯行う。そのことが周りを良くすることになる」ということでしょうか。

 比叡山堂めぐりは、一万五千歩を超え、疲労困憊で足取りは重かったが、川尻町と寺社の復興祈願を終えた私の心は軽かった。次号からは、川尻の仏閣訪ね歩きを記したい。

※伝教大師最澄上人 767年に現、滋賀県大津市坂本に生まれ、得度の後14歳の時、最澄の名を頂いたと言われる。一乗止観院を建立し「仏の教えが永遠に伝え続けられる」ことを願い、灯明を供えました。この灯明は大切に受け継がれ、今日も「不滅の法灯」として燦然と光り輝いています。804年、桓武天皇に願い出て、(げん)学生(がくしょう)として中国に渡り、現、浙江省の天台山の各寺院で禅の教えを受けます。同時期に日本に仏教を伝えたもう一人の高僧がいます。高野山を開いた真言宗の弘法大師(空海)です。二人の友愛と決別は余りにも有名ですが、比叡山はこのような古の歴史を私たちに語り掛けてくれます。

                                   荒金 錬一

 

49号 2016年(平成28年)10月20日 えびすのつぶやき(49号)は画像を参照する形式のため、川尻文化の会便り49号(PDF版)をご参照ください。

川尻文化の会便り・第49号(平成28年10月20日発行)

 

48号 2016年(平成28年)3月20日
お伊勢参り道中記 その四(見原家古文書)
三月十八日 見学地(※は注釈)
  平等院    ※京都府宇治市宇治蓮華(れんげ)にある寺。藤原道長の子、頼通が別荘を寺として創建。天台宗、浄土宗。 
  鳳凰(ほうおう)堂(平等 ※阿弥陀とは浄土教の中心をなす仏。修業中に衆生救済の院にある阿弥願をたて、現在は成仏し西方の極楽浄土で教化している陀堂)とされる。自力で成仏できない人も、念仏を唱えれば、鎧かけの松その救済力によって極楽に往生すると説く。平安時代に駒繋の松信仰が高まり、浄土宗、浄土真宗の本尊となる。
日野薬師
腹帯地蔵
 
三月十九日
  本国寺    ※京都市山科にある日蓮宗の寺で日蓮宗四大本山の一つ。
加藤清正公墓  山号大光山。天文の法乱で焼かれたが再興。
当院消失の跡  
普請     
    
三月二十一日
  東大寺    ※大仏殿  
柱数 四百七十六本
廬舎那仏(るしゃなぶつ)    御長サ 五丈三尺六寸
(通常、奈良  御顔 一丈六尺 巾九尺の大仏という) 眉 五尺四寸五分
御目 三尺九寸
御口 三尺七寸
御鼻口 三尺
御堂前景趣よし。そのほか難尽筆(ふでにつくしがたし)
※奈良仏教は、皇位の安泰。国家の平安。五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)を祈る鎮護(ちんご)国家の仏教であった。特に聖武天皇の時代には天変地異が相次いだ。そこで国家を鎮護しるため出されたのが国分寺建立の詔(738年、天平十)である諸国に国分寺、尼寺の建立工事が進められ、全国総国分寺として東大寺の造営が企図されたのです。

 是より伊勢参詣道中
三月二十四日
  蓬莱山     前に茶屋有
  御廟所     人皇十一代垂杼仁天皇御廟所
          大池なり池中に大なる坊あり、樹竹多し
三月二十八日
朝         御雑煮(角餅二つ、花かつおキミ)
          そうめん 香の物(小皿)
          右膳引盛本膳
          青身 御汁 ブリ 枝とうふ スルメ 猪口 御飯 焼肴 御酒 
          右おわって参銭
          とりの挨拶人
          一人前 百三十六文まで
外宮        
豊受大神宮     
八十末社宮     

天(あま)の岩戸、高間(たかま)ケ原

めぐり これより下り、かごに乗る

相(あい)の山越      三味線ひき多し
※相の山 伊勢市の内宮と外宮の間にある
※三味線ひきがずらりと道の両側にゴザ、ムシロを架けその前で三味線を弾いて通行をする人々から施しを受け取っていた。
                                                                 西 輝喜

 

47号 2016年(平成28年)1月20日

お伊勢参り道中記 その三(見原家古文書)

三月五日 見学地(※は注釈)

  淀御城    ※京都伏見区にあった近世の平城。宇治川と桂川の合流点  

    水車あり  にある水城。天正七年(1579)、豊臣秀吉が修築、側  

          室の淀殿が入った。伏見城の築城で廃城となる。

         ※淀城は淀川の中州にあり、北と西の二カ所に揚水用の水

          車((よど)水車(みずぐるま))を備えていた。

  七ツ時伏見着船、※七ツ時は現在の午前四時、若しくは午後四時

  (それ)より京都六条

  吉田院に泊り

三月六日

  六角堂    ※通称六角堂と呼ばれる頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区にある。四天王寺の建立に際し、聖徳太子がこの地に六角堂を建て、如意輪観音を安置した。嵯峨天皇の勅願所。

  清閑寺    ※京都東山にある真言宗の寺。長徳二年(996)、勅願寺に指定されたが、大治四年(1129)焼失。再建後、六条天皇、高倉天皇を寺内に葬る。

  

三月七日

  三拾三間堂  ※京都東山区にある天台宗のお寺、蓮華(れんげ)王院(おういん)の本堂。後白川法王が平清盛に命じて堂舎、等身大の千体観音像を造営させた。本堂三拾三間堂で知られる本堂は国宝。

  小町寺    ※京都市左京区にある補陀洛寺。小野小町終焉の地と伝えられ、境内には小町供養塔、姿見の井戸がある。

  西宗寺    ※山科の道なり。この裏手に月見の石あり。蓮如上人御秘蔵南殿月見の石とあり。

  二条城    ※京都市中京区にある近世の平城。世界遺産。

三月十二日晴

  四ツ頃より打立 ※四ツ時は現在の十時

  西山見物

  朱坂・桂川・嵐山 ※桂川のうち嵯峨(さが)から松尾にかけての流域を大堰(おおい)川と

  渡月橋など     いう。嵐山(あらしやま)・小倉山・()(げつ)橋などのある著名な景勝

   景趣難画筆    地。「けいしゅふでにえがきがたし」

  紫野大徳寺    ※京都市北区にある臨済宗の寺。

  神護寺      ※京都市右京区にある真言宗の古刹。高雄山寺とも言  

清滝川此辺有   われ最澄(さいちょう)空海(くうかい)がここで法会を開いた。勅願寺。

  北野       ※天満宮がある。

  平野       ※平野神社

  二条       ※二条河原の落書きで有名

三月十三日

  金毘羅社参詣   ※讃岐(さぬき)の国の()刀比(とひ)()宮、つまり金毘羅は香川県琴平なので、そこへ参詣する人々を運ぶ船の港ではないかと思われる。

  それより藪下   ※買い物に行く

三月十七日晴     

  西御本山御座敷拝見

虎の間 波の間 御対面処 鶴の間 雁の間 白書院 御能舞台 古惣絵見事

  遊行寺(ゆぎょうじ)(俗称)  ※清浄光寺(しょうじょうこうじ)。時宗の総本山

  東福寺      ※京都市東山区にある臨濟宗東福寺派の総本山。寺名       

            は東大寺と興福寺からとり、本尊の釈迦如来像は高      

            さ十五メートル。

   通天橋 紅葉の名所 秋は此処茶屋多く出来す 誠によき場所なり

藤の森       松高場と名つけし石あり(原文のまま)

                            西 輝喜

46号 2015年(平成27年)8月20日
お伊勢参り道中記 その二(見原家古文書)
二月二十九日 見学地 (※は注釈)
明石(あかし)城   ※ 兵庫県明石市 近世の平山城
舞子の浜  本文 船より景趣程よし
一の谷   本文 山の峠に弁慶鐘懸の松見ゆ
須磨の浦  本文 景趣難尽筆
※ 神戸市須磨区 淡路島を望む景勝地 景色は筆に書き表すことも出来ないほどきれいだ。
兵庫    本文 かかり船、大小数隻
生田(いくた)の森  本文 山の上にあり
※ 一の谷から生田の森までは源平合戦の歴史を色濃く残す。
神戸 泊   ※ 平安末期、平清盛が築造した港で日明交易の拠点だったが、後で堺が日明の貿易港になる。
※年貢米以外の納屋(なや)米、麦、大小豆などを積んだ川尻からの商い船に便乗して、神戸で下船。船は商いをしながら大坂方面までも行くらしい。神戸からは伊勢往復は、馬か駕籠(かご)だった。なお、ここまでの名所は帰りの船を待つ間の散策で説明します。
※神戸の地名は神功皇后ゆかりの生田神社に由来すると言われます。また、平清盛が福原京を営み、源平争乱や湊川の戦いなどで戦場になったところです。
三月一日  見学地
灘の大酒屋  ※ 兵庫県南東部、六甲山麓斜面一帯の灘は六甲山からの急流を利用した水車で精米、酒造や絞油で栄えた。
西の宮    ※ 兵庫県南東部大阪湾沿岸に位置し、神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)ゆかりの広田神社の門前町。
尼崎     ※ 兵庫県東南端、尼崎藩の城下町。
三月二日  見学地
八ツ半頃(二時)
安治(あじ)川入ル ※ 安治川は琵琶湖から大阪湾に注ぐ旧淀川の分流の一つ
で、中之島西端より大阪港まで。
天保山入口  ※ 天保二(一八三一)年、安治川の浚渫(しゅんせつ)(川底のさら
景よし    え)で出た土砂を安治川の河口左岸に積み上げた。
この小丘に高灯篭を設置、河口の目標とした目標山。幕末には砲台が
築かれた。
大坂着船
土佐堀二丁目 油屋(あぶらや)善兵衛方泊リ
同日夕、
野慶町より新町まで(夜景)見物
三月三日  見学地
西・東本願寺  ※ 見原家は先祖の供養を大切にした。京都市下京区
御坊南寺      堀川の西本願寺、同じ下京区烏丸通りの東本願寺
同日夕、夜店行   を参拝拝したのでしょう。
三月四日  見学地
道頓堀大芝居
朝五ツ(七時)頃より行き夜帰る。
※ 道頓堀角(かど)。座磨(ざま) 此のあたり、見世物いろいろあ
り 大あたり一切二十四文
三月五日  見学地
大坂八軒家浜(はま)渡(わた)しにて朝五ツ半(八時)頃乗る。一人前百四十四文。二
人前貸切る。
※ 座る場所が窮屈だったので、二人前を支払ってゆ
っくり座ったのでしょう。

西 輝喜

 

~船の魅力その二~
幕府の大船への怖れは的中しました。関ヶ原の戦いから二百五十三年後の嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督に率いられたアメリカ東洋艦隊の黒い大船四隻が突如江戸湾に進入してきたのです。途方もない大きい黒船の到来に国中は騒然となり、幕府はその弱さを世間に露呈し、幕府崩壊への第一歩となりました。 この頃、志ある人々は「尊王攘夷だ、佐幕開港だ、公武合体だ」と国の行く末を論じ、さらにその主張を行動に移すなど国内は騒然たる雰囲気に包まれて行きました。 さて、土佐高知藩の郷士坂本竜馬は十八歳の嘉永六年(一八五三)、江戸に出て千葉道場で剣術の修行に励み、仲間と時節について研鑽を積んだ後、土佐に帰国して土佐勤王党に参加しました。翌年脱藩して再び江戸に出た坂本竜馬は赤坂の勝海州邸を訪ねます。血気に逸る竜馬は、成り行きでは勝を斬る覚悟でした。
その年、文久二年(一八六二)に幕府の軍艦奉行となっていた勝安房守は、そんな竜馬を見ると、ゆったりした表情に時折微笑を浮かべながら二年前、遣米使節の随行艦として、オランダから購入した咸臨丸という蒸気軍艦に乗り組み、太平洋を横断した時の「感動、そして知った世界の広さと文化」を語り、日本人が今急いでなすべきことは航海術の習得であり、これが海軍力の強化となり、日本の国益につながると「国防と国益を兼ねた開港論」を諄諄と説いた。〝目から鱗が落ちる〟とはこのことだろう。「攘夷」を叫ぶ己の視野の狭さが恥ずかしく、竜馬はその場で勝安房守に入門を乞いました。

45号 2015年(平成27年)7月20日

お伊勢参り その一

 「七くさに はやささやくや ぬけ参り」

              宝井(たからい)()(かく)(江戸前期・蕉門の高弟)

 親や主人、また村役人の許可なしに           伊勢参りに行くことを「抜け参り」と言います。勿論、江戸初期には禁止されていました。「せめて一生に一度はお伊勢参りをしたい」は、庶民の夢でした。お伊勢とは、(あま)(てらす)大御神をまつる内宮、豊受(とようけ)大御神をまつる外宮(げぐう)別宮(べつぐう)など125社の総称です。

 大勢が安心して旅ができるようになったのは、街道や宿場が整備された江戸時代の元禄期(一六八八~一七0四)以降です。しかし、明和二年((一七六五)に「農民の伊勢詣は、村高五00石毎に一人を認める。ただし、年貢未納者は認めない」というお達で制限されていました。

 民衆の寺社参詣は江戸時代、伊勢神宮に限らず「四国八十八カ所」など、全国の有名寺社廻りも盛んでした。寺社参詣は信仰によることは勿論ですが、圧政下に苦しんだ民衆の不満解消にもなっていたと思われます。なかでも伊勢信仰が盛んだったのは、神社側が「御師(おし)」と呼ばれる伝導者を諸国に派遣して信仰熱をあおり、道中の手配や宿泊を請け負う現在の旅行業者の役割をしていたからでしょう。

(おとこ)(なり)守寿(山都町矢部)著「郷党(ごうとう)暦代(じゅう)穂記(ほき)」に、寛延四年(一七五一)、()塩焼(たき)という御師が矢部の浜町に来て、手永会所に三泊した。その折「会所玄関に神棚を設けたところ、老若男女が群衆してお賽銭が一日に八00目も集まった」とあります。神信仰の表れです。

 このように、民衆の間に伊勢信仰が根付くと役人も神罰を怖れ「抜け参り」を黙認するようになります。しかし、伊勢への旅費は一家の生活費の一年分にも相当します。そこで村落では、地域毎に「講」でお金を積み立てて順番に伊勢に参拝する仕組みを設けました。その年の参拝者を村境まで見送り、帰着時には村境に出迎える「坂迎え」の風習も生まれました。

 川尻町でのお伊勢参りは個人の希望でできました。

 外城町の二軒に道中記が残っています。一軒は「入来屋(いりきや)」の屋号を持つ見原(みはら)家で、もう一軒は坂尾家です。二軒は親戚ですが、ここでは墨字で詳しく記述してある入来屋の道中記を紹介します。なお、藩政時代の見原家は川平田船を持ち、甲佐や御船、砥用までも包丁・農具などの鍛冶製品や日用品から塩魚等を運び、帰りには納屋(なや)(まい)や大豆、茶、などの農産物を積んで来るなど手広く商いをしていたようです。また見原家は、川尻町を支配していた町奉行所にも品物を納入していた関係で殿様と呼ばれる町奉行から入来屋の屋号を授かったとの言い伝えがあります。

さて、道中記の表紙には「天保年間 お伊勢参り道中記」と書かれています。年月日は不明ですが、天保(てんぽう)年間(一八三0~一八四四)の前半は、天災が続き全国で一揆や打ち壊しが起き、また大塩平八郎の乱に代表される騒乱が相次いだ時です。このため旅は危険でしたので、天保年間後期の伊勢参りだったろうと思われます。                                            

西 輝喜

 

金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。