2018年(平成30年)9月20日 「かわしり遍路」7

 

火伏地蔵を祀る寺

 

 川尻町に足を踏み入れた人々を古へ誘う瑞鷹通りを西へ進むと国史跡熊本藩川尻米蔵跡を構成する外(と)城(じょう)蔵跡が姿を現します。平成三十三年に修復が終えるというこの米蔵跡の西側に一本の路地があります。地蔵町筋です。名前のとおり、ここには火伏地蔵堂がありましたが、平成二十八年の熊本地震でお堂は倒壊しました。更地となった地蔵堂跡から20メートルほど北に見えるのが歓喜山 常(じょう)清(せい)寺(川尻三丁目四―五、第二十八世金井俊賢住職)です。本妙寺の末寺という常清寺は、1615(元和元)年に創建された日蓮宗のお寺(註1)で、この一帯は江戸時代に、地蔵町と呼ばれ、町屋、御船手(船頭)、御作事所(造船)、関係の屋敷が建ち並ぶ町でした。

 

 さて、常清寺という寺名の由来、そして火伏地蔵とは不思議な縁(えにし)があるのです。常清寺に残る記録(常清寺縁起)によれば、加藤清正の肥後国主時代(1589~1611)の家臣に安武市之丞(いちのじょう)好次という武士がいました。晩年出家して幸(こう)清(せい)と改名、川尻町の外城町近くに庵(いおり)を設けました。幸清は、ある夜「此の地の火災を免れんと欲せば、これより南方の観音寺(現、杉島御船手の観音寺)の林の中にある我が像を大事にせよという霊夢を見た」といいます。その林の中から地蔵菩薩の御首を見つけた幸清は、自宅敷地に地蔵堂を建てて朝夕礼拝に努めます。幸清の嫡子、常清は、父の志を継ぎ元和元年に常清寺を建立して、地蔵堂を守りますが、晩年には家屋敷、地蔵堂とも他人へ譲り渡します。

 

 現在、地蔵町には「地蔵さんのお告げ」が今も語り継がれています。「この地区で火災の兆(きざ)しがある時は、どこからか十二、三歳の小童(しょうどう)が現れ、走り回って火事を知らせる」というものです。信者の寄付で新築された地蔵堂は、先の熊本地震で失われましたが、地区住民の方々は、「地蔵さんのお告げ」を今も大切にされ、毎月二十三日に常清寺で法要を営んでいます。

 

 ところで、川尻町の各寺院は神宮とも手を携えて、毎年春に川尻お寺でフェスタ(註2)を繰り広げています。常清寺の金井俊行副住職らによる「日蓮宗提唱の行動の変革」へのチャレンジです。「お寺が、寺から飛び出して人々の中に入り、また本堂や境内を開放してより多くの人が寺に集まる」試みです。お寺での精進料理、入棺体験、コンサート、フリーマーケットなどです。

 

 最後になりましたが、肝心の火事除けの火伏地蔵さんは、現在、常清寺本堂に祀られています。地蔵菩薩が四百年の時を経て、再び常清寺に帰って来たのです。本堂に静かに佇(たたず)む地蔵菩薩のお顔は、「火災などの災害は、何時起きるか分からないもので、日頃から心を引き締めなさい」と私たちに語り掛けているかのようです。                         

 

荒金 錬一

 

註1.寛永年間(1624~1643)に圓妙院日及によって開基されたとも云われる。

註2.川尻お寺でフェスタは、毎年春先に実施されている「かわしり春ものがたり」の中で、宗派を超えてお寺同士が、本堂や境内を開放して人々が集える「触れ合いの場」にしようと行っているものです。今年のお寺でフェスタには、九つの寺院と川尻神宮が参加しました。

 

2018年(平成30年)5月20日 「かわしり遍路」6

 

日本の歴史を語る寺

 

 バス通りの川尻四つ角を西に折れると、川尻の繁栄を今に伝える瑞鷹(株)本店・倉庫、今村家(塩飽(しわく)屋)等の景観建造物が軒を連ね、古の川尻にタイムスリップしたような風景に一変します。この道をさらに西へ進むと、JR九州の在来線、九州新幹線高架橋に至りますが、この高架橋の両側一帯が、国史跡熊本藩川尻米蔵跡(船着き場跡、外城(とじょう)蔵跡、御船手渡し場跡)です。外城蔵跡近くには、細川藩の奉行所、お茶屋が置かれたと記されていますが、はっきりした場所は分かっていません。JR高架橋をくぐると、外城町です。地名は、河尻城(註1)が城郭(内城と外城)を形成していたころからの地名と思われます。近代に入っても第二次大戦前頃までは、お船手(富合町)や外城の住民は「外城内で食料から日用雑貨に至る全ての生活用品を買い揃えることが出来た」といいます。

 

 この外城に、歴史上重要な会議が開かれたお寺があります。佛石山 泰養寺(川尻三丁目四―十七)です。泰養寺は、今から約五百年前の享禄二(1529)年に建てられた草庵(浄光寺)に始まり、寶永六(1709)年、泰養寺と改称になりました。   

 

 この泰養寺で開かれた会議(軍議)、一つは、寛永十四(1637)年から翌年にかけて、キリシタン教徒らが蜂起した島原の乱(註2)の制圧に際し、幕府の命を受けた細川忠(ただ)利(とし)は、光利を総大将に数万の大軍を出陣させます。その多くは、川尻港より軍船で島原の原城へ向かいますが、この時、多くの将が泰養寺に泊まり、軍議を開いたと伝えられています。後に、細川忠利は、このことを賞し、九曜の紋入りの屋根瓦(庫裡、山門、鐘楼堂)と鐘楼を泰養寺に寄進しています。

 

 もう一つは、明治十(1877)年二月から始まった西南戦争(註3)で、新政厚徳を掲げて薩摩を発った西郷隆盛率いる薩軍一万二千の軍勢が、次々と川尻に到着。川尻からの北上に際し、薩軍の桐野利秋、村田新八、篠原国幹ら幹部が、二十一日の夜、泰養寺に集まり「全軍での熊本城総攻撃」か「北上軍・熊本城攻撃軍の両面作戦」を論議します。翌早朝、熊本城の総攻撃が始まり、壮烈な田原坂戦に移ると川尻町には、多くの薩軍負傷兵、戦死者が運び込まれ、町の全ての寺院と大家が病院となります。泰養寺は七番病院となり、多くの薩軍負傷者を看護した記録が残っています。

 

 これらの多くの歴史を刻み続けた泰養寺は、先の熊本地震で大きく損壊、現在、本堂の再建が行われています。来年の夏には、境内の大きな銀杏の下で遊ぶ子供たちの歓声が外城町に響き渡るのが楽しみです                         

 

荒金 錬一

 

 

註1.河尻城 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた頃(建久三年・1192)、地頭として下向した河尻三郎実明が造ったとされる平城。河尻氏は、足利兄弟の対立(観応の擾乱)、菊池家との諍い等を経ながら、応永十五(1408)年の夏、菊池兼朝に攻められます。十一代実昭は城を脱出し行方不明、河尻城が終焉します。

 

註2.島原・天草の乱 寛永十四(1637)年、圧政に加え三年続きの大飢饉と宗教弾圧を受けた天草、島原のキリシタンと農民ら合わせて3万7千人が天草四郎時貞(宇土の下級武士益田甚兵衛の四男、益田四郎)を総大将に島原の原城(平山城)に七十日間籠城、幕府軍12万5千人と戦った一揆。

 

註3.西南戦争 鹿児島の私学校生を中心とした薩摩士族たちが、征韓論に敗れ下野した陸軍大将西郷隆盛を擁して熊本県内を中心に政府軍と戦った国内最後の内乱。二月二十二日から九月二十四日の西郷隆盛の自刃まで七ケ月間に亘る血戦が繰り広げられ、政府軍6923人、薩軍7186人が戦死した。

 

 

2018年(平成30年)3月20日 「かわしり遍路」5

 

清正寺と言われるお寺

  

 バス通りの川尻四ツ角交差点を東に折れ、川尻電車終点の記念碑を通り過ぎると通称、横町筋に入る。この一帯は、一昔前まで鍛冶屋町と言われ、川尻の代名詞とされる川尻包丁を作る鍛冶屋さんが軒を連ねていたところです。この横町の路地に沿って白い長塀が続きます。四百年以上の歴史を持つ日蓮宗の常妙山法宣寺(ほうせんじ)(川尻五丁目四―二十五)です。

 

 清正公(せいしょうこう)さんで親しまれる加藤清正(1562~1611)は、知・仁・勇の三徳兼備の名将として、また築城、治水で名を馳せますが、熱心な仏教徒でした。日蓮聖人に始まる「法華経(ほっけきょう)」を「帰依(きえ)」の対象(*1)とする日蓮宗への信仰心は人一倍強く、清正公ゆかりの日蓮宗のお寺は、浄池廟(じょうちびょう)のある熊本市西区の本妙寺を始め、東京の覚林寺・清正公寺、名古屋の妙行寺・妙延寺、京都の本圀寺(ほんこくじ)、尾道の妙宣寺、鶴岡の天澤寺、そして広島県福山市と熊本市川尻の法宣寺など全国各地にあります。川尻町の法宣寺は、加藤清正の正室となった徳川家康の養女、かな姫(1582~1656)が清正の武運長久を願い、現在の宇土市三拾町(丁)に建立したものを清正が現在地に移転したと言い伝えられています。釈迦牟尼仏を本尊とする法宣寺は、明治期以降荒廃してしまいますが、昭和期に本妙寺から三十三世智随(ちずい)上人を招いて再興が行われたと言います。

 

 大きな楼門を抜けると、本堂前の境内の一角に供養塔があります。明暦二年(1656)に建てられたという清正の正室、清淨院(せいじょういん)(かな姫)の供養塔です。法宣寺が清正公と清淨院を祀っていることが清正寺と言われる所以でしょう。清淨院は清正死後、二代忠広を支えますが、加藤家改易後は清正の菩提寺、京都山科の大光山本圀寺門前に移り住み余生を過ごし、死後、本圀寺の清正廟に埋葬されます。

 

 ところで、法宣寺の広い境内には、いろいろな方々が眠っています。川尻の風景を五言絶句や七言絶句の漢詩で表した漢学者の山田怡雲(たいうん)、「犬追物(いぬおうもの)」(*2)を伝えた肥後の儒学者、江良英林・仲文(1745~1789)兄弟の墓もあります。

 

 そして、楼門入口には、川尻小学校創立の石碑が静かに佇んでいます。碑文には「明治七年四月広瀬・大野の二私塾を合併し、法宣寺本堂を仮校舎に当て、川尻小学校を開設。翌八年に河陽小、河東小の二校を設立して学童を二分した」と記されています。明治の早い時期から教育にかける地域住民の熱意が感じられます。終日、鋼を鍛える槌音が響いていたという鍛冶屋町。時代は変って保育園から元気な幼児の声が響きわたる横町となりました。                          

荒金 錬一

 

 

(*1)インド大乗仏教に始まる経典のひとつ、法華経(妙法蓮華経)を唱えることにより善悪、男女、老若、貴賤、貧富の差別なく、すべての人が成仏できるという教え。

(*2)犬追物は、鎌倉時代に始まったとされ、流鏑馬、笠懸と共に日本弓道の作法(騎射三物)のひとつで、武芸の鍛錬とされた。四十間四方の馬場に百五十匹の犬を入れ、三十六騎の騎手が特殊な鏑矢でこの犬を射る競技。京都の神社等で盛んに行われ明治時代まで続いた犬追物は、大慈寺河原や椎田で正月行事として行われた文献が残る

 

 

2017年(平成29年)12月20日 「かわしり遍路」4

 

薩州墓のあるお寺

 

 バス通りの川尻四ツ角交差点を東に折れ、通称、横町筋に入るとその突き当りに見えるお寺が無動山

延壽寺(川尻五丁目五-一)です。今から八百年前の建久八(1197)年河尻の地頭、河尻三郎実明(さねあき)によって建立されたとされ、河尻氏の祈願寺です。山門を入ると古色蒼然とした本堂の前に広がる境内には四季折々の草花が咲き乱れ、大きな「西南役薩軍戦没者墓碑」、「薩軍本営並野戦病院跡」、豪潮禅師建立の「宝筺印(ほうきょういん)塔」の3つの石碑が目に飛び込みます。歴史の大変革の苦難を味わいながら、仏道を全うした第三十代住職、伝弘応師(でんこうおうし)の言動、そして「義のためなら、百万人といえども吾行かん」戦いに臨んだ薩摩兵士の心情、さらに、惻隠(そくいん)の心で負傷兵の治療・看護に奉仕した川尻の人々。

 

 日本最後の内戦は、明治十(1877)年、県内では熊本城・段山、植木・田原坂等で壮烈な激戦を展開しますが、旧薩摩街道筋に当たった川尻町は、必然的にその戦いに巻き込まれました。薩軍の本営が置かれ、北上を開始した1万を超える薩軍兵士と多量の弾薬や食料、それに伴い川尻では疎開する人、薩軍に味方する人、政府軍につく人、中立を守ろうとする人と混乱も起きました。西南戦争は、二月二十二日の熊本城の戦いで火ぶたが切られ、熊本城西門側の段山の戦いや田原坂・山鹿口、高瀬とへと広がり、同時にそれらの激戦で負傷した多くの薩軍兵士が川尻町に搬送され、町のお寺と大家合わせて118か所が野戦病院になります。町挙げての救護が行われたのです。

 

 西南戦争前の二月十九日には征討令が発せられ、薩軍の立場は賊軍となり、薩軍傷病兵の看護はもとより、戦死した薩軍兵の埋葬は、難しいものがあったと思われます。この中で延壽寺の伝弘応師は当時、28歳。若い住職は「死者を弔い供養するのは僧の勤め」とし、853人の戦死者の氏名・日時・場所を記載の上、寺領に埋葬、供養したと言います。伝弘応師は、後日の政府軍の取り調べに対して「死者には賊軍も政府軍もない、死者の埋葬、供養に悔いることなし」と述べたそうです。

 

 毎年四月、桜花爛漫の頃、延壽寺の境内には薩摩・大隅・日向出身の関係者で作る熊本三州会主催の西南役薩軍戦没者慰霊祭が執り行われます。横町の方々は各軒先に半旗を掲げ、遠く鹿児島から参列に訪れる遺族らに哀悼の意を表します。そして、慰霊祭には川尻町内からも例年多くの関係者が参加します。

 

 戦没者の慰霊碑は大正五(1016)年に建立され、同年に第一回慰霊祭を挙行、一昨年の平成二十七年には、第百回を数え、新たに薩軍戦没者の氏名が刻まれた銘碑が作られました。亡くなった薩軍兵のほとんどの遺骨は遺族関係者に引き取られましたが、慰霊碑の一角には、今も引き取られることのなかった8つの墓石が静かに横たわっています。

 

 薩軍戦没者の慰霊に関わった伝弘応師、負傷兵の治療に当たった川尻のお寺や町民の方々の博愛の心こそ、同じ自由民権を標榜(ひょうぼう)した義烈の人たちが、立場の違いによって戦った西南戦争の中にあっても「人を愛する」という薫り高い出来事ではないでしょうか。

                                        

荒金 錬一

 

注1.延壽寺

 天台宗。河尻実明の建立で開祖は快智法印氏、本尊は不動明王。天保二(1831)年五月の大洪水で、本尊以外はすべて流失しますが、藩の助成を得て天保八(1837)年再建された。

注2.西南戦争

 鹿児島の私学校生を中心とした薩摩士族たちが、征韓論に敗れ下野した陸軍大将西郷隆盛を擁して政府軍と戦った武力反乱。丁(てい)丑(ちょう)戦ともいう。二月二十二日から九月二十四日の西郷隆盛の自刃まで七ケ月間に亘り、国を思う純粋な若者たちが血戦を繰り広げ、政府軍6923人、薩軍7186人が戦死するという「涙しても止まない」痛ましい戦いでした。

 

 

2017年(平成29年)9月20日 「かわしり遍路」3

 

珍木の至宝があるお寺 

 JR川尻駅前交差点から南側一帯(岡町)のバス通りには、川尻町の代名詞とされる「川尻刃物」の鍛冶屋さんが軒を連ねている。室町時代に薩摩(現、鹿児島県)の刀工、波(なみの)平(ひら)行安(ゆきやす)に始まったという「川尻刃物」を今も受け継いでいる林昭三刃物店のあるところが、東嶺山(とうれいさん)西教寺(さいきょうじ)(川尻一丁目三―七)です。

 

 バス通りに面する山門、そして蔦(つた)の巻いた石塀は、古の歴史を物語る風格を漂わせ、茶褐色の石塀は一際目立ちます。加勢川に架かる橋に使用してあったという大きな「馬門(まかど)石(いし)」(*1)が用いられているからでしょうか。

 

 広い境内を持つ浄土真宗本願寺派の西教寺は、寛永四(1627)年、慶讃(けいさん)の開基とされ阿弥陀如来を本尊としていますが、先の熊本地震で本堂などが大きく損壊しました。十五世の西岡彰(あきら)住職は、「寛永六(1629)年に建立後、3回の立て直しをしたという歴史ある本堂や庫裡を、長い間、風雪に耐え抜いた具材を再利用して、再建したい」と話しています。

 

 本堂の裏手に廻ると高さ一〇メートルにもなろうと思われる大きな樹木がそびえています。西教寺の至宝とされる珍木です。樹木を下から見上げると「赤い花を咲かせるヤマツバキの木と初夏に白い花をつけるチシャノキ」の葉が混在しています。視線を根元の方に移すと、なんとチシャノキツバキの木が抱きついています。東南アジアに広く分布するチシャノキとサザンカで知られるヤマツバキがお互いに支えあい、共に生き抜いているのでしょう。住職は「相補(あいおぎな)って生き抜くことこそ人々の本来の姿であり、この樹木はそれを教えています」と語る。

 

 ところで、西教寺は明治時代に一時途絶えています。この時、大渡(おおわたり)の西楽寺(さいらくじ)(川尻六丁目四―一)より新しく住職をお迎えします。清(せい)章(しょう)和尚です。西教寺の十三世住職となった清章和尚は、第二次世界大戦の末期の昭和十九年から終戦後まで、沖縄県から疎開(*2)して来た人々を受け入れています。沖縄県立水産高校の元校長一家ら5、6家族を受け入れ、本堂は足の踏み場がない程だったと言います。

 

 川尻校区老人倶楽部「楽寿会」は、昭和三十九年に発足しました。高塩岩太郎、後藤八郎、西岡静枝の各氏が発起人になり、戦時中の困窮期と戦後の荒廃期を乗り越えたお年寄りたちの文化・情報交流の場づくりに奔走します。発足時の会員は、81人(現在、280人)で、毎月西教寺で交流会が開かれたそうです。発起人の西岡静枝さんこそ、西教寺の清章住職夫人だったのです。

 

 私は、学び舎を巣立つ生徒たちに餞(はなむけ)の言葉として、「蓬生麻中 不扶而直」(*3)と書いた漢詩を贈りました。その漢詩は、西教寺の至宝が教えている「相補って生き抜く」というものと似通うところがあるかも知れませんが、「川尻の至る処で、助け合いの心が脈々と受け継がれている」と感じられずにはおられません。

 

*(1)馬門石 阿蘇山の噴火で発生した火砕流の堆積物が凝灰岩となったもので、赤味がかった色をしており、阿蘇ピンク石とも言われる。馬門石は、柔らかくて加工し易いため石材として利用され、小路の「高札橋跡」(川尻一丁目)の碑石にも使われている。

 

*(2)沖縄県民の疎開 第二次大戦で沖縄が戦場となることが予想された昭和19年、沖縄本島の60歳以上のお年寄りと15歳以下の児童合わせて約6万人が、熊本、宮崎、大分、佐賀の四県に、また宮古・八重山諸島の2万人が台湾に集団疎開した。なお、この疎開で九州へ向かう疎開船「対馬丸」が、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、児童を含む1,400余人の方々が亡くなった。

 

*(3)蓬生麻中 不扶而直 茎の弱々しいヨモギも、天に向かって伸びるアサの中に育つと真っ直ぐに伸びる。転じて、友人に恵まれると「切磋琢磨」して大きく成長するとの意。

 

荒金 錬一

51号 2017年(平成29年)6月20日 「かわしり遍路」

雨だれが石を穿(うが)お寺 

川尻町には、四百年という長い歴史を持つお寺が多く「川尻に十五寺あり」といわれるほどである。川尻の夏の風物詩として知られる精霊流しは、長い歴史を生き抜いてきた人々の信仰心に裏付けされていると言っても過言ではない。

旧市道沿いの河尻神宮を後に、川尻五叉路を経て、JR川尻駅前の交差点を過ぎたところに、光明山(こうみょうざん)遍照寺(へんしょうじ)(川尻一丁目三―十一)という古刹(こさつ)があります。寛永二(1625)年、了意坊祐讃(りょういぼうゆうさん)が開いたとされる浄土真宗本願寺派のお寺で、十五世夏野憲浩住職が、往生(おうじょう)礼讃(らいさん)(1)と自信(じしん)教(きょう)人(にん)信(しん)(2)を寺の理念としており、ご本尊は阿弥陀如来です。遍照寺は昭和の初め、失火により焼けて現在はこじんまりした本堂になっていますが、境内の一角には藩政時代から川尻町で薬種問屋や草津餅店を営んだ近江商人、草津屋の歴代の墓があることで知られています。

遍照寺のバス道路に面した山門をくぐると、雨だれが時を刻み続けた石段が、来訪者を迎えます。山門に降った雨は、雨樋を通って地表には至らず、山門の瓦から雨滴となって基礎石を叩きます。降った雨が、昼も夜も何年も何百年もの間、礎石を叩き続けたのでしょう。硬い石には窪みができ、その窪みは次第に大きく、深くなり、山門の屋根瓦の真下に雨脚を示すかのように深さ3センチメートルほどの穴が一列に並んでいます。

四百年もの間にどんな出来事があっただろうか。季節の移ろいは春夏秋冬の年輪を刻んで変わらないとしても、人の世には激しい盛衰があり、物言わぬ雨滴の跡には無常さを感じます。単なる石に刻んだ雨跡かも知れませんが、私には、この雨滴の穴が「人生訓として忍耐の大切さ」を教えていると思わざるを得ません。

私は、教壇に立っていた頃、保護者の方々から「子供がものを大切にしない、忍耐が足りない、規則を守らない」などの相談、指摘を数多く受けました。スポーツを通して大成した有名選手たちは、異口同音に「最後を恥じず」を口にします。たとえ遅くても、休まず前に進めば、遅れたり失敗したりするが、いつか目標に達するという「忍耐の大切さ」を実践した証しだろうと考えます。

中国明朝末期の随筆集、采根譚(さいこんたん)(3)には「縄で擦り続けると木も切れるし、水滴も長い間には石に穴をあける、道を学ぶ者はたゆまず努め求めなければならない・・・」とあります。機会があれば、子供たちに「雨だれが穿った石」を見てもらい、努力の大切さを感じて貰いたいと思います。

*(1)往生礼讃 中国唐時代の浄土教の高僧、善導(ぜんどう)大師(たいし)(613~681)が作ったもので、自らがなした罪過を悔いて許しを請う「懺悔(ざんげ)」と日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中の六時礼拝を記した「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃」があり、親鸞聖人を偲ぶ報恩講でよく勤められる。

*(2)自信教人信 親鸞聖人が布教伝道の指針とした善導大師の「自ら信じ人を教えて信じせしむる」という教え。

*(3)采根譚 中国明時代の書で人との交わり、自然との楽しみを説いた処世訓の思想書。日本では加賀藩の儒教学者林蓀坡(そんぱ)(1781~1836)によって文化5(1822)年に発刊され、禅僧の間で広く愛読された。松下幸之助、田中角栄、川上哲治、野村克也ら経営者や偉人

が愛読書の一冊に挙げた本として有名。

荒金 錬一

 

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金太のつぶやき

私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。