2018年(平成30年)3月20日 「かわしり遍路」5

 

清正寺と言われるお寺

  

 バス通りの川尻四ツ角交差点を東に折れ、川尻電車終点の記念碑を通り過ぎると通称、横町筋に入る。この一帯は、一昔前まで鍛冶屋町と言われ、川尻の代名詞とされる川尻包丁を作る鍛冶屋さんが軒を連ねていたところです。この横町の路地に沿って白い長塀が続きます。四百年以上の歴史を持つ日蓮宗の常妙山法宣寺(ほうせんじ)(川尻五丁目四―二十五)です。

 

 清正公(せいしょうこう)さんで親しまれる加藤清正(1562~1611)は、知・仁・勇の三徳兼備の名将として、また築城、治水で名を馳せますが、熱心な仏教徒でした。日蓮聖人に始まる「法華経(ほっけきょう)」を「帰依(きえ)」の対象(*1)とする日蓮宗への信仰心は人一倍強く、清正公ゆかりの日蓮宗のお寺は、浄池廟(じょうちびょう)のある熊本市西区の本妙寺を始め、東京の覚林寺・清正公寺、名古屋の妙行寺・妙延寺、京都の本圀寺(ほんこくじ)、尾道の妙宣寺、鶴岡の天澤寺、そして広島県福山市と熊本市川尻の法宣寺など全国各地にあります。川尻町の法宣寺は、加藤清正の正室となった徳川家康の養女、かな姫(1582~1656)が清正の武運長久を願い、現在の宇土市三拾町(丁)に建立したものを清正が現在地に移転したと言い伝えられています。釈迦牟尼仏を本尊とする法宣寺は、明治期以降荒廃してしまいますが、昭和期に本妙寺から三十三世智随(ちずい)上人を招いて再興が行われたと言います。

 

 大きな楼門を抜けると、本堂前の境内の一角に供養塔があります。明暦二年(1656)に建てられたという清正の正室、清淨院(せいじょういん)(かな姫)の供養塔です。法宣寺が清正公と清淨院を祀っていることが清正寺と言われる所以でしょう。清淨院は清正死後、二代忠広を支えますが、加藤家改易後は清正の菩提寺、京都山科の大光山本圀寺門前に移り住み余生を過ごし、死後、本圀寺の清正廟に埋葬されます。

 

 ところで、法宣寺の広い境内には、いろいろな方々が眠っています。川尻の風景を五言絶句や七言絶句の漢詩で表した漢学者の山田怡雲(たいうん)、「犬追物(いぬおうもの)」(*2)を伝えた肥後の儒学者、江良英林・仲文(1745~1789)兄弟の墓もあります。

 

 そして、楼門入口には、川尻小学校創立の石碑が静かに佇んでいます。碑文には「明治七年四月広瀬・大野の二私塾を合併し、法宣寺本堂を仮校舎に当て、川尻小学校を開設。翌八年に河陽小、河東小の二校を設立して学童を二分した」と記されています。明治の早い時期から教育にかける地域住民の熱意が感じられます。終日、鋼を鍛える槌音が響いていたという鍛冶屋町。時代は変って保育園から元気な幼児の声が響きわたる横町となりました。                          

荒金 錬一

 

 

(*1)インド大乗仏教に始まる経典のひとつ、法華経(妙法蓮華経)を唱えることにより善悪、男女、老若、貴賤、貧富の差別なく、すべての人が成仏できるという教え。

(*2)犬追物は、鎌倉時代に始まったとされ、流鏑馬、笠懸と共に日本弓道の作法(騎射三物)のひとつで、武芸の鍛錬とされた。四十間四方の馬場に百五十匹の犬を入れ、三十六騎の騎手が特殊な鏑矢でこの犬を射る競技。京都の神社等で盛んに行われ明治時代まで続いた犬追物は、大慈寺河原や椎田で正月行事として行われた文献が残る

 

 

2017年(平成29年)12月20日 「かわしり遍路」4

 

薩州墓のあるお寺

 

 バス通りの川尻四ツ角交差点を東に折れ、通称、横町筋に入るとその突き当りに見えるお寺が無動山

延壽寺(川尻五丁目五-一)です。今から八百年前の建久八(1197)年河尻の地頭、河尻三郎実明(さねあき)によって建立されたとされ、河尻氏の祈願寺です。山門を入ると古色蒼然とした本堂の前に広がる境内には四季折々の草花が咲き乱れ、大きな「西南役薩軍戦没者墓碑」、「薩軍本営並野戦病院跡」、豪潮禅師建立の「宝筺印(ほうきょういん)塔」の3つの石碑が目に飛び込みます。歴史の大変革の苦難を味わいながら、仏道を全うした第三十代住職、伝弘応師(でんこうおうし)の言動、そして「義のためなら、百万人といえども吾行かん」戦いに臨んだ薩摩兵士の心情、さらに、惻隠(そくいん)の心で負傷兵の治療・看護に奉仕した川尻の人々。

 

 日本最後の内戦は、明治十(1877)年、県内では熊本城・段山、植木・田原坂等で壮烈な激戦を展開しますが、旧薩摩街道筋に当たった川尻町は、必然的にその戦いに巻き込まれました。薩軍の本営が置かれ、北上を開始した1万を超える薩軍兵士と多量の弾薬や食料、それに伴い川尻では疎開する人、薩軍に味方する人、政府軍につく人、中立を守ろうとする人と混乱も起きました。西南戦争は、二月二十二日の熊本城の戦いで火ぶたが切られ、熊本城西門側の段山の戦いや田原坂・山鹿口、高瀬とへと広がり、同時にそれらの激戦で負傷した多くの薩軍兵士が川尻町に搬送され、町のお寺と大家合わせて118か所が野戦病院になります。町挙げての救護が行われたのです。

 

 西南戦争前の二月十九日には征討令が発せられ、薩軍の立場は賊軍となり、薩軍傷病兵の看護はもとより、戦死した薩軍兵の埋葬は、難しいものがあったと思われます。この中で延壽寺の伝弘応師は当時、28歳。若い住職は「死者を弔い供養するのは僧の勤め」とし、853人の戦死者の氏名・日時・場所を記載の上、寺領に埋葬、供養したと言います。伝弘応師は、後日の政府軍の取り調べに対して「死者には賊軍も政府軍もない、死者の埋葬、供養に悔いることなし」と述べたそうです。

 

 毎年四月、桜花爛漫の頃、延壽寺の境内には薩摩・大隅・日向出身の関係者で作る熊本三州会主催の西南役薩軍戦没者慰霊祭が執り行われます。横町の方々は各軒先に半旗を掲げ、遠く鹿児島から参列に訪れる遺族らに哀悼の意を表します。そして、慰霊祭には川尻町内からも例年多くの関係者が参加します。

 

 戦没者の慰霊碑は大正五(1016)年に建立され、同年に第一回慰霊祭を挙行、一昨年の平成二十七年には、第百回を数え、新たに薩軍戦没者の氏名が刻まれた銘碑が作られました。亡くなった薩軍兵のほとんどの遺骨は遺族関係者に引き取られましたが、慰霊碑の一角には、今も引き取られることのなかった8つの墓石が静かに横たわっています。

 

 薩軍戦没者の慰霊に関わった伝弘応師、負傷兵の治療に当たった川尻のお寺や町民の方々の博愛の心こそ、同じ自由民権を標榜(ひょうぼう)した義烈の人たちが、立場の違いによって戦った西南戦争の中にあっても「人を愛する」という薫り高い出来事ではないでしょうか。

                                        

荒金 錬一

 

注1.延壽寺

 天台宗。河尻実明の建立で開祖は快智法印氏、本尊は不動明王。天保二(1831)年五月の大洪水で、本尊以外はすべて流失しますが、藩の助成を得て天保八(1837)年再建された。

注2.西南戦争

 鹿児島の私学校生を中心とした薩摩士族たちが、征韓論に敗れ下野した陸軍大将西郷隆盛を擁して政府軍と戦った武力反乱。丁(てい)丑(ちょう)戦ともいう。二月二十二日から九月二十四日の西郷隆盛の自刃まで七ケ月間に亘り、国を思う純粋な若者たちが血戦を繰り広げ、政府軍6923人、薩軍7186人が戦死するという「涙しても止まない」痛ましい戦いでした。

 

 

2017年(平成29年)9月20日 「かわしり遍路」3

 

珍木の至宝があるお寺 

 JR川尻駅前交差点から南側一帯(岡町)のバス通りには、川尻町の代名詞とされる「川尻刃物」の鍛冶屋さんが軒を連ねている。室町時代に薩摩(現、鹿児島県)の刀工、波(なみの)平(ひら)行安(ゆきやす)に始まったという「川尻刃物」を今も受け継いでいる林昭三刃物店のあるところが、東嶺山(とうれいさん)西教寺(さいきょうじ)(川尻一丁目三―七)です。

 

 バス通りに面する山門、そして蔦(つた)の巻いた石塀は、古の歴史を物語る風格を漂わせ、茶褐色の石塀は一際目立ちます。加勢川に架かる橋に使用してあったという大きな「馬門(まかど)石(いし)」(*1)が用いられているからでしょうか。

 

 広い境内を持つ浄土真宗本願寺派の西教寺は、寛永四(1627)年、慶讃(けいさん)の開基とされ阿弥陀如来を本尊としていますが、先の熊本地震で本堂などが大きく損壊しました。十五世の西岡彰(あきら)住職は、「寛永六(1629)年に建立後、3回の立て直しをしたという歴史ある本堂や庫裡を、長い間、風雪に耐え抜いた具材を再利用して、再建したい」と話しています。

 

 本堂の裏手に廻ると高さ一〇メートルにもなろうと思われる大きな樹木がそびえています。西教寺の至宝とされる珍木です。樹木を下から見上げると「赤い花を咲かせるヤマツバキの木と初夏に白い花をつけるチシャノキ」の葉が混在しています。視線を根元の方に移すと、なんとチシャノキツバキの木が抱きついています。東南アジアに広く分布するチシャノキとサザンカで知られるヤマツバキがお互いに支えあい、共に生き抜いているのでしょう。住職は「相補(あいおぎな)って生き抜くことこそ人々の本来の姿であり、この樹木はそれを教えています」と語る。

 

 ところで、西教寺は明治時代に一時途絶えています。この時、大渡(おおわたり)の西楽寺(さいらくじ)(川尻六丁目四―一)より新しく住職をお迎えします。清(せい)章(しょう)和尚です。西教寺の十三世住職となった清章和尚は、第二次世界大戦の末期の昭和十九年から終戦後まで、沖縄県から疎開(*2)して来た人々を受け入れています。沖縄県立水産高校の元校長一家ら5、6家族を受け入れ、本堂は足の踏み場がない程だったと言います。

 

 川尻校区老人倶楽部「楽寿会」は、昭和三十九年に発足しました。高塩岩太郎、後藤八郎、西岡静枝の各氏が発起人になり、戦時中の困窮期と戦後の荒廃期を乗り越えたお年寄りたちの文化・情報交流の場づくりに奔走します。発足時の会員は、81人(現在、280人)で、毎月西教寺で交流会が開かれたそうです。発起人の西岡静枝さんこそ、西教寺の清章住職夫人だったのです。

 

 私は、学び舎を巣立つ生徒たちに餞(はなむけ)の言葉として、「蓬生麻中 不扶而直」(*3)と書いた漢詩を贈りました。その漢詩は、西教寺の至宝が教えている「相補って生き抜く」というものと似通うところがあるかも知れませんが、「川尻の至る処で、助け合いの心が脈々と受け継がれている」と感じられずにはおられません。

 

*(1)馬門石 阿蘇山の噴火で発生した火砕流の堆積物が凝灰岩となったもので、赤味がかった色をしており、阿蘇ピンク石とも言われる。馬門石は、柔らかくて加工し易いため石材として利用され、小路の「高札橋跡」(川尻一丁目)の碑石にも使われている。

 

*(2)沖縄県民の疎開 第二次大戦で沖縄が戦場となることが予想された昭和19年、沖縄本島の60歳以上のお年寄りと15歳以下の児童合わせて約6万人が、熊本、宮崎、大分、佐賀の四県に、また宮古・八重山諸島の2万人が台湾に集団疎開した。なお、この疎開で九州へ向かう疎開船「対馬丸」が、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、児童を含む1,400余人の方々が亡くなった。

 

*(3)蓬生麻中 不扶而直 茎の弱々しいヨモギも、天に向かって伸びるアサの中に育つと真っ直ぐに伸びる。転じて、友人に恵まれると「切磋琢磨」して大きく成長するとの意。

 

荒金 錬一

51号 2017年(平成29年)6月20日 「かわしり遍路」

雨だれが石を穿(うが)お寺 

川尻町には、四百年という長い歴史を持つお寺が多く「川尻に十五寺あり」といわれるほどである。川尻の夏の風物詩として知られる精霊流しは、長い歴史を生き抜いてきた人々の信仰心に裏付けされていると言っても過言ではない。

旧市道沿いの河尻神宮を後に、川尻五叉路を経て、JR川尻駅前の交差点を過ぎたところに、光明山(こうみょうざん)遍照寺(へんしょうじ)(川尻一丁目三―十一)という古刹(こさつ)があります。寛永二(1625)年、了意坊祐讃(りょういぼうゆうさん)が開いたとされる浄土真宗本願寺派のお寺で、十五世夏野憲浩住職が、往生(おうじょう)礼讃(らいさん)(1)と自信(じしん)教(きょう)人(にん)信(しん)(2)を寺の理念としており、ご本尊は阿弥陀如来です。遍照寺は昭和の初め、失火により焼けて現在はこじんまりした本堂になっていますが、境内の一角には藩政時代から川尻町で薬種問屋や草津餅店を営んだ近江商人、草津屋の歴代の墓があることで知られています。

遍照寺のバス道路に面した山門をくぐると、雨だれが時を刻み続けた石段が、来訪者を迎えます。山門に降った雨は、雨樋を通って地表には至らず、山門の瓦から雨滴となって基礎石を叩きます。降った雨が、昼も夜も何年も何百年もの間、礎石を叩き続けたのでしょう。硬い石には窪みができ、その窪みは次第に大きく、深くなり、山門の屋根瓦の真下に雨脚を示すかのように深さ3センチメートルほどの穴が一列に並んでいます。

四百年もの間にどんな出来事があっただろうか。季節の移ろいは春夏秋冬の年輪を刻んで変わらないとしても、人の世には激しい盛衰があり、物言わぬ雨滴の跡には無常さを感じます。単なる石に刻んだ雨跡かも知れませんが、私には、この雨滴の穴が「人生訓として忍耐の大切さ」を教えていると思わざるを得ません。

私は、教壇に立っていた頃、保護者の方々から「子供がものを大切にしない、忍耐が足りない、規則を守らない」などの相談、指摘を数多く受けました。スポーツを通して大成した有名選手たちは、異口同音に「最後を恥じず」を口にします。たとえ遅くても、休まず前に進めば、遅れたり失敗したりするが、いつか目標に達するという「忍耐の大切さ」を実践した証しだろうと考えます。

中国明朝末期の随筆集、采根譚(さいこんたん)(3)には「縄で擦り続けると木も切れるし、水滴も長い間には石に穴をあける、道を学ぶ者はたゆまず努め求めなければならない・・・」とあります。機会があれば、子供たちに「雨だれが穿った石」を見てもらい、努力の大切さを感じて貰いたいと思います。

*(1)往生礼讃 中国唐時代の浄土教の高僧、善導(ぜんどう)大師(たいし)(613~681)が作ったもので、自らがなした罪過を悔いて許しを請う「懺悔(ざんげ)」と日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中の六時礼拝を記した「勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃」があり、親鸞聖人を偲ぶ報恩講でよく勤められる。

*(2)自信教人信 親鸞聖人が布教伝道の指針とした善導大師の「自ら信じ人を教えて信じせしむる」という教え。

*(3)采根譚 中国明時代の書で人との交わり、自然との楽しみを説いた処世訓の思想書。日本では加賀藩の儒教学者林蓀坡(そんぱ)(1781~1836)によって文化5(1822)年に発刊され、禅僧の間で広く愛読された。松下幸之助、田中角栄、川上哲治、野村克也ら経営者や偉人

が愛読書の一冊に挙げた本として有名。

荒金 錬一

 

 

50号 2017年(平成29年)3月20日 新連載「かわしり遍路」

一隅を照らす 此れ則ち国宝なり

 

西大翁(西輝喜先生)に続いての執筆を依頼されたものの、小生は文才もさることながらこれといった識もなく、承諾したことを悔やむ日々が続いた。  

昨年の熊本地震が、数百年の時を刻み続けた十五指を超える川尻の仏閣に甚大な被害をもたらし、川尻の寺々の悲惨な状況に驚愕、私は世界文化遺産の比叡山延暦寺詣に出かけた。

眼下に古都、京都の街並みと琵琶湖を一望する比叡山は、「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と崇め詠まれていますが、織田信長による焼き討ちでも知られます。

古代より大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座するとされたこの比叡山に延暦七年(788)、(でん)(ぎょう)大師(だいし)最澄(さいちょう)上人(しょうにん)が草庵(一乗(いちじょう)止観院(しかんいん))を創建しました。そして、上人の没後の弘仁十四年(824)元号「延暦」を寺号として賜ったのです。以来、延暦寺は国家安泰と人材養成の道場となり、鎌倉時代に入ると日本仏教各宗派の禅師を輩出しました。

 比叡山まではいくつものルートがあるが、私は京都から京阪電車、叡山電車そして急勾配を上る叡山ケーブル、叡山ロープウェイと幾つもの駅を乗り降りして山頂を目指した。

 最盛期には三千余の堂塔があったと伝えられる比叡山延暦寺(現在は百五十余の堂塔)は、山の東に東塔(とうとう)、西に西塔(さいとう)、北を横川(よかわ)という三つの地区に分け、それぞれが本堂を持つ三塔と呼ばれています。

 これら三塔にある各禅師の年譜を見てみますと、天台宗の祖・伝教大師最澄(767~822)相應(そうおう)和尚(おしょう)831~913)、慈恵(じえ)大師(たいし)(912~985)、中略、浄土宗の開祖・(ほう)(ねん)上人(しょうにん)(1133~1212)、臨済宗の祖・栄西(えいさい)(ぜん)(1141~1215)、浄土真宗の祖・親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)(1173~1262)、曹洞宗の祖・道元(どうげん)禅師(ぜんし)(1200~1253)、日蓮宗の祖・日蓮(にちれん)上人(しょうにん)(1222~1282)等ほぼ同時期に各宗派の禅師を輩出し、日本仏教文化の隆盛期を創ったとされます。

 総本堂の根本中堂(こんぽんちゅうどう)内の壁面には、伝教大師聖訓(天台法華宗年分学生式)が記されています。「国宝とは何ものぞ 宝とは道心なり 道心ある人を名づけて国宝となす」 故に古人言う経寸十枚、是れ国宝に非ず「一隅を照らす 此れ則ち国宝なり」とあります。

「ひとり一人が思いやりの心を持って、一隅を照らす人になる。ひとり一人が相手の立場に立って考え、自分のできることを精一杯行う。そのことが周りを良くすることになる」ということでしょうか。

 比叡山堂めぐりは、一万五千歩を超え、疲労困憊で足取りは重かったが、川尻町と寺社の復興祈願を終えた私の心は軽かった。次号からは、川尻の仏閣訪ね歩きを記したい。

※伝教大師最澄上人 767年に現、滋賀県大津市坂本に生まれ、得度の後14歳の時、最澄の名を頂いたと言われる。一乗止観院を建立し「仏の教えが永遠に伝え続けられる」ことを願い、灯明を供えました。この灯明は大切に受け継がれ、今日も「不滅の法灯」として燦然と光り輝いています。804年、桓武天皇に願い出て、(げん)学生(がくしょう)として中国に渡り、現、浙江省の天台山の各寺院で禅の教えを受けます。同時期に日本に仏教を伝えたもう一人の高僧がいます。高野山を開いた真言宗の弘法大師(空海)です。二人の友愛と決別は余りにも有名ですが、比叡山はこのような古の歴史を私たちに語り掛けてくれます。

                                   荒金 錬一

 

49号 2016年(平成28年)10月20日 えびすのつぶやき(49号)は画像を参照する形式のため、川尻文化の会便り49号(PDF版)をご参照ください。

川尻文化の会便り・第49号(平成28年10月20日発行)

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私たちの暮らしの中で生命を吹き込まれ育まれてきた熊本の伝統工芸品。その伝統工芸品は、時代を超えて芸術性を増し、国境を越えて人々の心に優しさと安らぎを与えています。また、日本の四季が、「創造」と「感性」の豊かさを育み熊本の工芸品に彩りを持たせてきました。海路交通が盛んな時代、海の玄関口であった肥後(熊本)の川尻は、必然的に工芸が生まれる土地柄にあり、その伝統を今日まで継承している町です。川尻のまちづくりの観光スポット「くまもと工芸会館」では伝統工芸普及のために工芸逸品の展示販売と各種工芸教室を開催しています。皆様方の新鮮で創造豊かな感性を「くまもと工芸会館」でぜひ創作してください。